2011年5月23日月曜日

しもたま柔道&闘病日記ーその32-

しもたま柔道&闘病日記ーその32-

退院した私は、2005年1月17日より職場に復帰した。バイクと電車とバスを乗り継いで。和歌山駅にもエレベーターが設置されていたのは幸いだった。「しゃば」にでて学習したのは、子どもよりも大人が、とりわけ日本人中年男性が一番危険なことである。通行時には誰にでも扉を開けておく習慣のある外国人と異なり、日本人男性は、自分が優位であり、職場の上司か客でもない限り通行時にゆずらない。男性同士ならぶつかるのもいとわず、ぶつかられるのがいやな年配者や女性、年少者が逆に譲ってくれることに慣れている。したがって、ドアを通過するときには出会い頭にほぼ間違い無く、真っ直ぐぶつかってくる。だが私は避ける事ができない。なぜか。人を前方に発見し、進路をひと1人分くらい横にずらすまで、当時(20051月、34歳)の私は、約3秒はかかっていた。つまり、秒速2mで歩く人をよけるには、6mくらい手前で人を発見したときから横へ動き始めていなくてはならない。ドア付近の出会い頭では、それが間に合わないのである。しかし、相手は中年日本男児である。「なにをこの小生意気な」と言わんばかりに、避けない私を睨みつけつつぶつかってゆく。倒れでもして靭帯が切れたら一巻の終わりの私は、その男が去るまで恐怖にさらされ続ける。2番目に恐いのはスーパーで買物中の女性達である。短時間のあいだに買って帰ろうと、目が商品に向いており、私の松葉杖まで視界に入らないらしい。カートの勢いよろしくぶつかってきたり、杖に「足払い」をかけにくる。一方の子どもは、ふざけたりよそ見したりしているわりに運動神経がよく、さっさとよけて走っていってくれる。中学校の生徒達も、とても親切にいたわってくれた。松葉杖をつきながら子どもや若者といて、恐いと思ったことは一度もなかった。これからの未来も捨てたもんじゃないね。そんなわけで、いくらエレベーターやら箱ものでバリアフリーを歌っても、人々の意識が変らにゃ障害のある人は街に出て来れないんだなあと、手術をしてから痛感した。一見“紳士淑女”そうな人よりも、いかつい“おあにいさん”が、エレベーターのボタンを押しつづけてくれたりするのが、世の中なのである。

そのうちに「中学校の仕事の帰り道」というにはJR和歌山駅から歩いて10分の病院は遠く、出勤が早朝、帰宅が深夜になるのは身体がつらく、なんとか近くの病院に移れないかと思い始めた。スポーツ復帰に頼りにしていたトレーナーの西林さんが3月でやめるといううわさも要因の一つだ。さらに悪いことは重なるもので、理学療法士のQ氏が、受験生の親にたのまれ断れなかったらしく、雑談中に中学校の入試情報をあれこれ探りを入れてくるようになり、入試についてはタッチしていないと説明し続けるのがおっくうになってきた。しかも彼は、入院中に私を、ニューハーフとたまに間違えた「つわもの」である。明るいラテンなノリの男だが、あまりに失礼な誤解であったので、出来るだけ、個人情報漏洩や職場の機密につながる深い会話を避けていた。
私の仕事も3月までなので、病院を和歌山市にこだわる理由はない。岩崎先生に転院を希望すると、2月に紹介状を書いてもらえることになった。こうして病院探しが始まった。有田の病院では、お年寄りの日常復帰のリハビリが中心で、スポーツ復帰を目的としたアスレチックジムを備えている所はなかった。滝川柔道場の高校生の紹介で、海南のとある整形外科に見学に行った。それはそれは素晴らしい設備で、最新のトレーニング機器がたくさんあり、さらに週に一回、有能なスポーツドクターが来て競技復帰を支えてくれるという。
そこは、封建的な地方病院ではなく、私を一人の柔道選手として扱ってくれた。私は、海南の病院に移ることを決めた。
転院した最初は、とてもリハビリが順調に進んでいた。新しい病院は家から30分と近い上、担当になった理学療法士は温厚な方で、トレーニング中はずうっとつきそって、足に負担が無いよう器具を調節していてくれた。右の靭帯も伸ばしている私は、手術していない足でもかばう必要があり、その事をよく理解して下さった。説明もわかりやすく丁寧だった。いっそうすばらしいことに、スポーツドクターの診察で、一番始めにかけてくれたのが「ところで、いつ、競技復帰の予定ですか?」という言葉だった。涙が出そうになった。きちんと、競技者として扱ってくれている!和歌山でこの言葉を聞くのは初めてだ。私は一瞬、来年の6月末のマスターズ大会(年齢別の大会)を思い浮かべたが、さすがにそのまま伝えるのはいくらなんでも傲慢に思い、謙虚に「来年の夏の大会です」とだけ答えた。「今年の夏ではないんですね?」ドクターはけげんそうに聞く。「早ければ4月からランニングを開始できます。メニューを組みましょう」こうして、練習量こそ角谷整形のリハビリの半分に減ったものの、内容の濃いリハビリが始まった。もしかして、本当に来年夏のマスターズに間に合うかもしれないと思うと、切ってよかった、転院してよかったとしみじみ感じた。せっせとリハビリに精を出した。
雲行きが怪しくなったのは、1週間後のことだ。担当の海南の理学療法士が、「角谷にリハビリのカルテを送るよう頼んだら、今日、チーフのK先生が直接(海南まで)持ってきてくれるそうです」と言う。なにか、不安な影がよぎった。角谷で手術直後からの担当の理学療法士Q氏(世間話はうまかったが、理学療法士としての技術は不明。伝達ミスが多く、本当の理学療法士かと、今では思う)とは、学校のことなど世間話ばかりで、治療や柔道の話をあまりする機会が無かった。彼の書いたカルテだろうか?カルテに、「中学校受験の選抜方法について、患者は知らないという」とか、書いてあるのか?それとも、転院間際に引き継いだY氏(彼は私のことを、かなりビビッており、脚を持つ手が震えていた。Q氏から、引継ぎで何を聞かされていたのかと想像する。まさか、変態ニューハーフネタではあるまい。労基署がらみの、例の中学校の事件か?)の書いたカルテだろうか? Y氏とは海南に移るまでの取り合えずの“リリーフ投手(引き継ぎ)”と割り切ることにして、当たり障りのない会話をしていたから、 Y氏は私のことをよく知らないはずだ。ただ以前、Y氏の診察時間に間に合わないことがあった。受付担当の女性に、「Y氏はずうっと待っていたんですよ!!遅れるときは事前に電話くらいして下さい!」と、頭ごなしに叱られてしまった。前のK氏はラテン的な人だったので、仕事が忙しいなら来れる時間にくればいいよと言ってくれていた。引き継いだY氏も、自分がいないときは他の人に頼みますからと言ってくれていた。私はお二人の言葉にずうっと甘えていた。しかし、受付の女性にはそのことはまったく伝わっていなかったらしい。長距離通勤と長時間勤務で、疲れていた私は、治療を続ける自信を失い、「忙しくて時間どおりに来れないことは先生に言ってあります。通院はもう無理なので、これからは自分で自主トレします!」とたんかを切って帰ってきた。その後、Y氏とうまく和解し、リハビリは続いていた。生活に役立つ情報をY氏がいろいろ教えてくれるなどし、表向きは平穏にすぎていた。しかしそのトラブルがカルテに書いてある可能性は充分にあった。再婚先に前の家族が秘話を持って押しかけるかのように、カルテ到着は不気味だった。私は、何事も起こりませんようにと、祈るばかりだった。
悪いことは続くものである。最悪の2週間の続きは次号にて。      

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