2011年5月10日火曜日

しもたま柔道&闘病日記―その2―

しもたま柔道&闘病日記―その2―
たった1ヶ月半で柔道の2級昇級試験を迎えた私。それには、大人は「一般2級」から受験というお得な制度と、両親からの遺伝子と恵まれた環境による(遺伝子については、柔道日記のその1参照のこと)。私の環境は、これでもかというほど、柔道むきであった。まず、仕事が果樹園(当時、有限会社の正社員であり、翌年から中学高校で講師を掛け持ちする)で、1月からしばらく農閑期という事で、昼間でも空いた時間に練習したり研究したりする事が出来た。また、道場は家から1kmほどと近かった。60代の先生は、勝ちにいくでも無理にシゴクでもなく、やる気が出るまで何年でも待とうとする、そんな立派な人格の先生だったので、私は伸び伸びと技を吸収していった。さらに、帰宅すると、柔道初段と2段が、アドバイスを授けてくれた。こんな柔道づけの生活の結果、慢心があって、試合をナメてかかっていた。
さて、いよいよ、試験日の2/17がやってきた。30分前にいくと、もう、選手のほとんどが来ていたが、なぜか私の道場の小中学生は、半分もそろっていなかった。少ない人数のせいで、私のアップの相手は、私より後に入った、初心者の小柄な低学年の女の子だった。彼女に、「打ち込み(技の練習)しようか」というと、「うちこみってなーに?」といわれてしまって出来なかった。試合直前にアップ無しとは、どないすんねん。これは予定外でほんと困った。子どもと違って、急に激しく動くと怪我するがな。しかたなく「試合ごっこしたいのだけど、どうかなぁ?(乱取り練習をしよう)」と分かりやすい言葉で丁寧に申し出てみたが、彼女はめんどくさそうに「わたし、試合前に疲れたくないから、やーらなーい」と、のたまうのであった。ええい、なるようになれと、やけになる私であった(道場の主体ではないため、打ち込みを知らない小学生に試合直前に打ち込み以外のアップをさせるわけにはいかない。身体を暖めるからと、代替案で鬼ごっこでもしようものなら、子どもをサボらせていると思われる)。
初試合。身体は冷えたまま。試合を知らなさすぎて、待つ間に緊張もない。大人という事で、「一般1級」受験者(小柄な中3女子から、2m近い高専の生徒らも含む)と試合をすることになる。やりがいに、闘志が湧いてきた。大柄で初心者の高専か、小柄で柔道歴の長い中学生かの2択である。始め、高専のところのリーグに入れられていたが、師匠の配慮で、小柄な中学生のグループにランクを落とされた。初戦はやや私より小柄な女の子。有利だと思った。ところが、である。いざ、とっくみあってやろうと意気込んで出て行くと、「本部に礼をしなさい」と審判に出鼻をくじかれてしまった(試合のルールをほとんど知らなかったのだ)。「はじめ!」の合図で、泥沼のデビュー戦が開始された。最初から相手は大柄な私に捕まるものかと逃げ回って、普段の乱取り練習のように襟を持たせてくれない。しかも、女子の身体は柔らかく、たたみ近くまで投げても、するすると柔軟にかわしたり、重心が低く粘っこいのである。つまり、向こうは投げられにくく、こっちは柔道歴一ヶ月で投げる技が切れず、すこんときれいに投げきれないので、勝敗がつきにくいのだ。「なにかが違うぞ。でも、むこうは子どもだ、負けてなるものか」。私はだんだんむきになってきた。すると、相手も初心者に負けてなるものかと、やっきになってきた。子ども達とは言え、柔道歴数年。こっちの襟を取ろうと、わざとではないが相手の指が口に入ってくる。やっと組んだと思ったら、今度は、わたしの手を反則ぎりぎりで袖につつんできて、文字どおり手も足も出ない。やはり、相手は試合なれしていた。「こんなはずじゃあ」。余裕で組むはずが、相手のペースに載せられて、頭に血がのぼって、手足がバラバラになっていく。体がロボットのようにぎくしゃく硬い。やがて、柔道というよりボクシングのような、上半身の殴り合いになっていった。大人げない試合内容に、私は穴があったら入りたかった。
2試合目は、審判の自己判断で、2級受験小中学生グループに入れられた。ランクを落されたという、みょーな敗北感と、さっきの試合の興奮の余韻とで、最初の試合と逆に、体はようやく暖まってほぐれて来たのに、思いっきり緊張してきて、震えが止まらなくなってしまった。開始前に「そっちじゃない。左側だ」。無情にも審判は、機械的に指示する。緊張を通り越して、完全な「あがり状態」にはまる。自力では冷静になれない。私は孤独だった。山やサッカーのように一緒に戦う仲間がいたら、どんなにか心強いことだろうに。一方の相手には指導者がぴったりとついていて、一挙一動指示が飛ぶ。「絶対に捕まるな!」。相手の指導者は、私の最初の試合での稚拙な戦い方を参考に、いろいろとセコい戦術を用いて、私と組ませないような指示を飛ばしている(それが柔道の普通の戦い方だと後で知るが、その時は、なんで相撲のように開始早々組めないのかと思っていた。いかに体格や体力があっても、柔道は技のスポーツ出である)。年齢に関係なく、大人の狡さ、セコさがないと、2級には成れないのだ。組みさえすれば、倒せる可能性があるのにと思うと、歯ぎしりする思いだった。私の付け焼き刃の知識では、全く歯が立たなかった。時間が長く感じられた。しびれを切らした時、私は無謀にも、腕力のみを頼りに、力ずくで内股に持っていこうとした。相手は冷静に「内股すかし」でかわした。大きくよろけた。結局はこの内股すかしが元で相手の勝ち。惨めな敗退だった。
まるで小学生並み!さんさんたる試合内容に打ちのめされ、落ち込んでいると、審判の1人がかけよってきて、こう言った。「いやあ、君はファイターやなあ。昇級は試合の中身しだいや。結果は関係ないで(何歳に間違われたんや、、、まさか、高校生では、、、)」。私はどんな慰めも惨めに思えたが、審判の記憶に残る試合が出来たこと、ファイターと評価されたことはうれしかった。その夜は「次の試合こそ受かったるぞ」と、やけ酒をあおって、唯一、試合後だけは大人らしかった。
次の日、練習の途中に、先生が一同を並べて賞状の授与式を行った。全く期待していなかった私に、先生は2級の賞状を手渡して下さった。「ファイター」が評価されたのだ。あの審判の言葉は、単なる慰めではなかったのだ。頬をつねりたくなるというのはこういう時だろう。この夢が覚めなければいいのにと思いつつ、これで茶帯びだという喜びが込み上げてきた。帯びの色の重さも感じた。これから、茶帯びにふさわしい試合をしようと。
数日後、手芸屋さんで染料を買ってきて、一緒に受かった中2の女の子と、真っ白な帯びを茶色に染めた。まず洗濯して、染料につけること50分、色留め20分、合計1時間半の楽しい作業だった。買ったばかりのようなすばらしい仕上がりに、大満足だった。手染めの帯びは、とても愛着が湧いてくる。だけど、これを締めた自分は、写真館の借り衣装のように似合わない気がした。文句なく似合うまでには、まだまだ鍛練が必要なんだろう。
翌日の道場の練習で、ある小学生にぼそっと言われた。「試合相手はそっちのこと、子どもと思ってたみたいよ。でも、なんで、あんなんに負けるんや。恥ずかしくないんか」と。一番言われたくないその言葉。子どもに子どもとバカにされていたとは。くやしいけど、試合内容の稚拙さが事実なので、言い返せない。やたら気弱になっている私は、「ははー!ごもっともでございますぅー」と、ひたすらひれ伏すばかりであった(この頃の私は、転職しようにも大阪で派遣社員の仕事を探してもまったくなく、教員採用試験は採用人数が増えないままで、果樹園の仕事も生活もスランプであった。柔道は、プライドの維持と息抜きに来ていたのだが、あまり、周囲には理解されていなかった。後に黒帯があると、中高の講師がやり易くなり、柔道を始めたことが教員に復帰する転機になったと感謝していた)。ではまた、つづきは次号にて。

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