2011年5月28日土曜日

しもたま柔道&闘病日記その38

そうこうしているうちに、ドーンさんの帰国日がせまってきた。東北地方にいる彼氏と、数週間遊んでいた彼女は、いっしょに岩登りに行って滑落し、運悪く足を捻挫してしまった(下の沢まで落ちたらしいから、それくらいですんでよかったというべきか)。私と同じ左膝を捻挫した!同じように大人になって柔道を始め、同じように黒帯びをとり、同じように直後に左膝を負傷するなど、本当にドーンさんは人まねが好きだ。そんな所までまねなくてもよかったのに。滝川先生ご夫妻が、私と義兄をドーンさんとのお別れ食事会に誘って下さった。私たちは道場でいっしょに記念写真を撮り、ドーンとの再会を誓い会った。余りに、名残が惜しく、私と義兄は、ドーンさんの見送りに、関空まで出かけた。まだ、帰国がピンと来ない。たった2年間だったが、家族の1人のような気がしていた。ドーンさんのいない職場や柔道場なんて、考えられなかった。滝川先生も、孫が外国に行くようで、さぞ、寂しい思いをされていることだろう。
滝川道場では、小学生がますます強くなり、ついに道場の6年生の女子が、45kg級と45kg超級とで、それぞれ優勝と準優勝を果たすまでになった。優勝した子は晴れて全国大会出場、というわけで、先生ご夫妻と、我々は、滝川の小学生初の全国大会を応援すべく、秋田へ赴いた。試合結果は初戦を白星で飾り、2試合目は前回の優勝者の東京代表とあたる不運で、惜しくも敗退した。他の選手が3秒以内に投げられる中、彼女は2分近くも粘り強く闘った上での負けだった。先生も私たちも、自分の試合のように緊張し、自分の試合のように落ち込んだ。秋田旅行はとても楽しい思い出になった。滝川先生のほうは、昔、秋田国体の時に来て以来で、青春時代の思い出に浸っておられた。「昔泊まった、男鹿半島の旅館は今でもあるやろうか、、、」とおっしゃって、試合後に観光にでかけられた。われわれは、田沢湖に泊まったあと、名物「稲庭うどん」の体験をしに行った。工場の責任者と意気投合し、うどんとみかんを物々交換する約束をしてきた。東京の人は大きいみかんが好きで、東北へは大きくて大味のみかんを送る。しかし、秋田の人は関西人に負けず味にうるさい。うどんが関西風の薄味でだしがきいていることからもわかる。みかんは、愛媛から小さい甘いものを取り寄せているという。ぜひともこれは、おいしい有田みかんを食べてもらって、愛媛との味の違いを知ってもらわなくては。そして、こちらはみかんでうどんを釣るのである。今年の冬が楽しみだ(その後、12月にうどんを送ってくださいました。ごちそうさまでした)
秋田から帰ると、微熱が続き、結局たいしてリハビリができなかった。しかし、トレーナーの西林さんは、熱が続いてもトレーニングを少しずつしていたことを評価してくれた。うれしい!やる気が出る!「受験(試合)」に向けた本物の「家庭教師(トレーナー)」を得たのだ。こうして、バレエとともに「スポーツリハビリ」という新しいトレーニングが始まった。

病院では、自転車こぎやジョギングのトレーニングで、筋力をつけて、走れるようになったら日常復帰といわれる。しかし、それでは3輪車に乗れる幼児と大差が無い。前回、日常とスポーツの間に広がる険しい崖の話しをしたが、患者が「3才児の運動能力」、スポーツ選手は「大人の運動能力」といったくらいの違いだろうか。ジグザグに切り返してラケットでボールを打ち返したり、ジャンプしてアタックやシュートをしたりというのは、もっと高度なバランス感覚と筋力を要する。
西林さんのリハビリは月に2回のペースで続いた。これまでの私は、10年前にスキーで傷めた右膝をかばって過ごしてきた。というわけで、スポーツリハビリでは悪い左足ばかりではなく右側も筋肉をつけたり、染み付いた悪い癖をとったりが必要で、他の患者さんより何倍も苦労があった。まず最初にジャンプのトレーニング。筋肉の使い方を思い出しジャンプが安定してくると、ジャンプしながらターンする練習にかわり、「①深い屈伸のままの移動」や、「②筋トレ2種類」と「③片足立ちのバランス」が加わった。その後、「④すばやい両足のターン」を増やすと案の定、元気な右足のほうが先に筋肉痛になってしまった。
スポーツでは、バレーボールのレシーブにしろ、柔道の背負い投げにしろ、しゃがんで重心移動するのは重要な動きだ。足を踏み出すたびに重心が左右に揺れるのを防ぐには、骨盤付近の筋力が必要である。メニューの強度など、全ては科学的に計算されている。とても、自分の頭ではここまでメニューを考えられない。きっと、知らずに手を抜いてたり、あるいは負荷が強すぎたりして、挫折してしまう。トレーナーの存在をとてもありがたく感じた。
10月も入ってくると、足の傷そのものが安定してきたような気がした。安全にスポーツするには切ってから910ヶ月かかるというのはやはり本当だった。捻ったり転んだりする可能性が減った。喩え転んでも安定しているため、以前のように関節がずれて傷まないと思う。バレエも農作業も、不安なくこなせるようになってきた。この感じでは、11月~12月の収穫作業に間に合いそうだ。2月から感じていた焦りと胸のつっかえがとれた気がした。
11月、いよいよ、1年で最も忙しい温州みかんの収穫時期が始まる。初めは1日中、収穫ばかりを繰り返す。和歌山県の有田地方は平野が少なく、したがって我が有限会社の農地は斜面の傾斜がきつい。場所によっては30度くらいあって、そこで10kgになる収穫用のの籠を肩からぶら下げ、歩き回り、木にも登ったりする。そして、20kg入るプラスチックのみかん「コンテナ」という入れ物に移し変えて、その20kgを両手で抱えて、モノレールまで歩いて運ぶ。それを何十箱も、トラックに積み込む。特別なことはしなくても、筋トレになる。いや、この日のために、1年かけて筋トレをしてきたといっても過言ではない。いきなりみかんコンテナを運んで腰を痛めないために、日ごろから柔道しているのだ。やがて、半日収穫しながら、早朝から深夜まで箱詰め作業をするようになる。近所の家には、早朝4時ごろから夜12時すぎまで20時間以上働くところもあるが、有限会社末広はせいぜい1415時間程度だ。シーズンが始まりだすと、日曜日も祭日もなく、延々と50日間ほど無休で働く。今年は、年末に極端に寒かったせいもあるが、みかんが終わったとたんに葬式が毎日いくつもいくつも集落で続いた。なかには、年端のいかない乳児もいて、葬儀が痛々しかった。病院に行くのを我慢して、過労やガンで倒れる人の数は知れない。
2004年の10月に手術前に筋トレを始めてから、約1年たった。早いもので、柔道を始めて4年、35歳になった。長かった2005年が終わった。脚はみかん作業で鍛えられ、見違えるように筋肉がついた。正月早々、カナダ人のドーンさんに会いに行くことになった。カナダではない。タイだ。彼女は、ボランティアで英語を教えに、タイの田舎町に住んでいた。その昔、旧日本軍がビルマ攻略のためにひいた泰緬鉄道沿いで、すぐ近くにミャンマー(旧ビルマ)国境があった。彼女は外国人の少ない田舎で、マラリアの危険も顧みず、冬でも40℃近い猛暑の中、がんばっていた。誘われて、小学校の授業を見学した。子供たちの約半数が、孤児院の子供。どの子も制服のこざっぱりとした赤いポロシャツを着ている。古着っぽく見えない。全員の教科書もなく、教材はほとんどが手作りだった。小学生なのに60分授業。さすがに、1年生は落ち着かなくて、トイレにいきたい、水が飲みたいという(英語で!)。しかし、高学年は英語を身につけようと、真剣に授業を受けていた。日本の小学校では近年見られない、子供たちの生き生きとした光景が新鮮だった。日本では中高生でも、こんなに集中して60分授業を受けられるだろうか。放課後、柔道クラブがあるというので、早速参加してきた。2年ぶりの乱取り(練習試合)。思うように足が出ない。すぐに息があがった。しかし、体が覚えてくれていて、黒帯の面子を保つことはできた。
これに自信をつけて、帰国してすぐにバレエだけ出なく、柔道にも復帰した。初めはうちこみ、そして白帯と乱取り練習を始めた。さらに、いっしょにマスターズを目指していた3段の人が、足運びの練習を買って出てくださり、組みながら前後左右に動き回った。すると、左足の動きが鈍いことが目に見えてわかった。何度も書いたように、傷が治り筋肉がついても、スポーツするためには別のトレーニングメニューがいる。みかん作業にない動きを補充すべきだ。苦手の左ステップ練習は、道場で自分で工夫して行うことにした。
2006125日、久しぶりに住みや整形外科に行き、旧姓西林さんの訓練を受けた。30秒間で腹筋を33回出来たとき、「もう、スポーツリハビリは終了です」と言われた。34回がアスリートレベルなんだそうだ。うれしくもあり、さみしくもあった。果たして手術して正解だったか?私にとっては、やってよかった。私はラッキーだった。同じ頃手術をした他の人は、いまだに違和感を抱えていたり、日常さえ復帰できないでいる人もいる。そんなわけで、だれにもかれにも手術を勧めようとは思わない。でも、きちんとした医師とスタッフがそろった病院で切り、気心の知れた理学療法士や整骨院でリハビリを行えるなら、チャレンジする価値はあると思う。そして、私は復活した。マニアックな文章につきあって下さった読者の皆さん、ありがとうございました。    

しもたま柔道&闘病日記その37

もうすぐ筋力測定の日というのに私は、2kgも筋肉を落してしまったためにたいした期待もなく、のんべんだらりと過ごしていた。当日はなんの考えも無く、いつものリハビリの“のり”で出かけていった。理学療法室につくと、トレーナーや療法士の方々が、つぎつぎと「測定頑張ってね」と声をかけてくれた。私は合点が行かなかった。「なにをがんばるんですかあ?機械が測定してくれるだけなのにぃ、、、」「あなたがどれぐらいの力を出せるかを測るんですよ。汗だくになりますよ」「ええっ!!レントゲンやMRIみたいに、じっとしていたら筋肉量が出るのではないのですか?!」
私は浅はかだった。勝手に体脂肪計のようなやつをイメージしていた!アップもストレッチもそこそこに、私は歯医者さんの椅子のように周りにいろいろな器具の並んだ、ひざを曲げ伸ばしする椅子に座った。太ももの前と裏の筋力を測るというのだ。瞬発力と持久力。その頃、私が重点を置いていた筋トレは、サイドステップとかツイスト(的外れなことに太ももの左右の筋肉だ)。普段ランニングをしているから、スクワットはもういいやと、あまり力を入れてこなかったのを悔やんだが、もう遅かった。それにしても、治療とリハビリは患者からすれば、ルート地図もなくいきなり登山をするような気分だ。準備も計画もなく、行き当たりばったりの出来事ばかりだ。楽天的な人はいいけれど、私は自分の置かれている状況を知らずに動くのは苦手だ。スリルがありすぎて心臓に悪い。
結果は、予想通り、さっぱりだった。まず、太ももの前の筋肉は、とてもスポーツしている人、スポーツ復帰を目指している人のレベルではなかった。大腿部の裏になると、もっと悲惨だった。日常生活に必要な筋肉の7割ほどしかなかった。特に、手術で筋肉をはぎ取った左側が、右の半分くらいしかなかった。トレーナーの西林さんも言う。「高校生で、270%くらいはあるのに。もうちょっとあるかと思った。ははは、、、」。落ち込んでいると、理学療法士のK氏がこういうではないか。「(32歳の年齢で)そんなにあるんですか。もう、日常生活は充分できます。柔道をしないならリハビリに来る必要はありません(二度と柔道をしないなど、言った覚えはない、マスターズを目指していた私に対して、失礼であろう)」その言葉はいっそうショックだった。私は、自分が思っていた以上によっぽど素人扱いされていたのだった。私としては、スポーツリハビリが一流の角谷でわざわざ切ったつもりであった。しかし、K氏にすれば、手のかかる患者は治ったらさっさと早く通院をやめてくれたらええのに、、、」と言いたげなのだ。そんな風に言わんばかりに、「もう来なくていい」と言われても、「はいそうですか、おおきにありがとさん」とはいえない。私は「世間の普通の日常生活ばかりでなく、収穫作業や登山、サッカー、柔道、、、」の菰池 環である。ジャンプもターンも出来ないというのは、スポーツリハビリのレベルでいえば、まだまだ病人の範疇である。ここで放り出されてはたまらない。食い下がることにした。K氏ではなく、例のラテンのQ氏にだ。
Q氏に「あのう、お話があります」と、真剣な顔で近づくと、受付のおねーさんは顔が凍り付いた。しかし、正々堂々、言うべきことは言わねばならない。「私は柔道復帰が目的で、手術したのですが、その事がK氏のほうにうまく引き継ぎされていないようなんです。スポーツリハビリを受けたいのですが、、、」明るいQ氏は明るい声でこう返事してくれた。「僕のほうから、西林に伝えておきます。彼女、週に2日だけ、来てますから。今度の水曜日の夕方来てみてください」。Q氏が神様のように見えた!職場のことを根掘り葉掘りきく、無神経な人と誤解していたら、間違いだった。頼まれたら断れない、やさしい親切な人だっただけなのだ。こうしてQ氏のお陰で、スポーツリハビリが始まった。
私がまず初めにトレーナーの西林さんに組んでもらったのは、ただのジャンプだった。普段のランニングではもちろん片足で着地しているから、こんなの楽勝!と思い気や、全身汗だくになる。10cmの段差どころか、その場でちょっと飛び上がっただけで、ひざががくがく。1m以上の台から飛び降りたときのように、あまりの衝撃に骨や軟骨や筋肉が悲鳴をあげる。身体が、どの筋肉をどの順番で縮めるかを忘れてしまっているために、まともに腰や頭に振動が伝わる。足首とひざと脚の付け根3ヶ所の、ジョイント部のコンビネーションがうまくいくようになったのは、その一ヶ月後だった。とまあこんな感じで、ジャンプひとつとってもすぐには思い出せないのだ。

しもたま柔道&闘病日記その36

角谷整形外科には優秀なスポーツリハビリのトレーナーがいる。西林さんだ(今は結婚なさって名前は変えられた)。彼女には、入院中から相談に乗ってもらい、かなりお世話になった。しかし、その実力を買われ、大阪の専門学校の講師として就職してしまった。4月以降もう、角谷でスポーツリハビリを教えてもらえないと悲しんでいたら、彼女はまだ辞めていなかった。週に2日だけ角谷に来てくれている。スポーツトレーナーの仕事はまだ、和歌山ではメジャーではない。理解者が少なく、苦労が多いと聞く。スポーツ科学を熟知したトレーナーが、病院で指導してくれるおかげで、一部のトップアスリートばかりではなく、今では普通の中高生でもその恩恵を受けられるようになった。トレーナーは理学療法士よりいっそう医師に近い職種であると思う。選手一人一人にあったメニューを豊富な知識や経験から選んで処方する、知的な仕事である。
私は以前、ひざの内視鏡検査で、たかが1週間の入院で、スポーツ復帰に6ヶ月もかかってしまった。その苦い経験から、日常生活とスポーツレベルのあいだに横たわる“崖”の険しさを良く知っている。それは、岩登りというより沢登りに近い。自分で登れそうなルートを見つけつつ、どろどろのもろい崖を、泥んこになってはい進むような感触である。簡単に直登、または高巻く人もいれば、あるいは行き止まりに泣き、やがてあきらめて引き返す人も出てくる。昔の私はこの譬えでいえば、手探りで高巻きをし、すぐにひっこぬけそうな草木をにぎりながら、何度も壁からずり落ちたために時間がかかったといえる。どろかべに慣れているかの経験が物を言う。トレーナーがいてスポーツリハビリをうけるということは、安全なロープをつけながら、セカンドで沢登りしているのに等しい。登るのは選手自身だが、科学的に計算された手順や器具で、確実安全に目的のレベルまで引き上げてもらえる。
しかし、多くの中高生は、スポーツ科学とは無縁の世界をさ迷う。コーチの多くが、退院するとさっさと競技復帰させてしまうからだ。さっきの滝のたとえ話しでいくと、「ロープ無しで根性で、滝を直登しろ」と言うのと同じだ。 “屋内の”難しい岩壁をのぼってきた技術ある子供たちは、人工壁の気軽さで、コーチの言うがままに傾斜のやさしくみえる“自然の”滝の直登を試みてしまう。実力があって、あるいはたまたま本当にゆるやかな滝で、直登できてしまう子も多い。しかし不運な子どもは、コーチの言葉通りチャレンジしようとして濡れた岩で手足を滑らせ、確保の無いまま滑落していく。つまり、競技から脱落し、そのまま一生怪我を抱える子どもも少なくない。自分で物を考えられる頭のいい子供は、コーチのいうことを無視してマイペースに滝を高巻くこともある。その子達は、コーチの言うことを聞かない練習をさぼるやつだと勘違いされてしまう。最悪の場合、スポーツクラブから見捨てられる。スポーツトレーナーの西林さんの悩みの種は、こういった自分の身を守るすべの無い子ども達に、どうやってリハビリを続けさせるかということだ。大人の意識がまず変わるしかない。しかし、大人の頭は固く、道のりは厳しい。
私は、4月から7月のあいだ、理学療法士のみ指導を受け、トレーナーの指導は受けてこなかった(理学療法士のYが、私にはまだ早すぎると言って、受けさせてくれなかった)。それで、またもや日常生活とスポーツレベルのあいだに横たわるいやらしい“崖”に直面することとなった。なにか、別の手を打つ必要があった。このままでは、柔道復帰どころか、1112月のみかん仕事復帰もあやうい(柔道場にもどったら、柔道にいっそう近づけると思っていたが、逆に「おあずけ」をくらっていた)。私は、再び柔道場に通うのを辞め、体の感覚をつかめる、そして筋力のつくことを始めることにした。対戦式格闘技ではなく、どちらかというと柔道の「形(かた)」にちかい、クラシックバレエである。ただ、カナダ人ドーンさんの帰国が8月に迫っていたので、7月までは道場に通い、バレエのほうは8月から始めることにした。
角谷では、理学療法士Y氏が転勤し、私の担当は4人目にして最も優秀なK先生にかわった。正直言って、どうせ替わるなら、もっと早く替わって欲しかった。そうすれば、海南に移ることもなく、例の「魔の2週間」を味わうことなく済んだのだ(「魔の2週間」については、その10を参照のこと)。医師とK氏にそれぞれ、「柔道やめて、とりあえずバレエを始める事にしました」というと、口を揃えて「バレーですか(球技のやつ)」と言った。その後でダンスのほうだと知るやいなや、お二方とも息を詰まらせたようにのけぞるのだ。
むかし柔道していた子が、何十年経っても体で柔道を覚えているように、私の体はバレエを覚えてくれているはずだった。新しいスポーツではないので、何をやったら膝にくるか、他の競技よりもよくわかっている。バレエを選んだのは、ただたんに“昔取った杵柄”というばかりではない。太極拳や空手をやっている方はご存知だと思うが、格闘技の形と舞踊には共通点が多い。昔、武術を禁止された琉球の人が、舞踊だと称してこっそり形の練習をしていたと聞く。以前、お笑い番組で、意外な人が意外な体験をするシリーズがあり、漫才師や空手家がクラシックバレエをかっこよく踊るというものがあった。一番美しく優雅に舞ったのは、2枚目の俳優でも、器用な漫才師でもない、筋肉隆々で髭づら無骨の空手家(最近、総合格闘技の審判をしている)であった!ダンスは「ゆっくりとした膝の屈伸(ひざの筋トレ)」、「美しいフォームのバランス」、「開脚(ストレッチ)」、「音楽に合わせたステップ(敏捷性)」の四重唱。まさしくスポーツリハビリなのだ。筋力測定とリハビリのようすは次号に続く。

しもたま柔道&闘病日記その35

ついに道場とジョギングの許可が出た!角谷の生活リハビリも週に1回通うだけでよくなった!職場も家から5分のM高校の分校。そして、待ちに待った滝川柔道場に復帰するのだ。岩崎医師に道場練習について確認すると、レントゲンの結果、骨の硬化も順調で、重い荷物を持っても大丈夫。旅行も軽いハイキングもOKという。理論上は背負い投げで相手の体重が乗ってきても、もう関節に関しては大丈夫ということだ。ただ、「打ち込み」は止めておくようにと言う。筋肉が伴わないと、肉離れを起こしたり、靭帯に負担がかかって危険なためだ。筋力測定で安全を確認したらOK。ということは、5月に筋力測定だったら、5月に許可がもらえて打ち込みができたのになあと思った。が、あせらなくても自分さえしっかりしていれば筋トレはやり遂げられると、まだ信じていてた。岩崎先生はそれよりも、 Y氏のリハビリについて、驚きを隠せないでいた。実は4月時点でハーフスクワット(90度屈伸)までしか許可が出ていなかった。それなのに検査好きのY氏は、どこまでひざを曲げても大丈夫か、深い屈伸のテストをさせていた!しかし今ならもう、しゃがんでもいいと医師はいう。6月からしっかり打ち込みが出来るように、一生懸命練習しようと思った。それには、基本からやるべきだろう。まず、柔道の「形(かた)」からするつもりだと岩崎先生にいうと、賛成してくれた。「形」をするために、ますます、腹筋や背筋、腕立て、スクワットに励んだ。だがここに来て、通勤と通院が忙しく、柔道の滝川先生と連絡を密にとっていなかったつけがまわってきた。
練習の日、道場では何が起こるかわからないので、念のために装具を付けていった(装具があれば、急な接触でもひざを守る事が出来る)。滝川先生に、柔道場でトレーニングしてもいいかと尋ねると、いいと言ってくれた。「もう、乱取りしてもええんか」「乱取りはまだまだ先、1年後ぐらいです」「では、打ち込みは」「うちこみもまだですが、形(かた)ならやれます」、近況を報告し、筋トレが必要なことをうったえた。しかし、先生は術後3日目の一番たいへんな時の私しか見た事が無かった。「乱取は1年後」というのをひどく強調しすぎたらしく、私をかなりの重傷と判断なさった。装具の見た目も悪かった。装具はかぼそい筋肉を補うためで、はずすとまったく歩けないと思われたようだ。「受け身は足に衝撃があるから危ない」「環さんは形をせんでもええ。形の試験も来んでもええ。他の先生にまかしといたらええんや」と、つれない。折りしも中学生の女の子達が形の試験を受ける頃だった。私はリハビリがてら一緒に形の練習が出来るものと思い、はりきっていたのでがっかりだった。しかたがなく、私は1人、もくもくと鉄アレーと格闘することになった。
その頃カナダ人のドーンさんは、黒帯をとってから賞状が来るまで試合が無いので、すっかりやる気を失っていた。そして、2段の男性を捕まえては、「10秒でなげてごらん」とけしかけていた。その2段の男性は私と同じく大人になってから始めた人で、最近子育てが忙しく、柔道が久しぶりで、ドーンさんのけしかけに喜びながらもへろへろになっていた。暇を持て余しているドーンさんが、完全復帰までのトレーニング相手になってくれないかと考えたこともあった。1年半前に初めてドーンさんが道場に来たとき、私は週に4日柔道をして一番油の載った時期だったが、他の人と練習するのをあきらめ、ドーンさんに付きっきりで手取り足取り、技を説明した。人を教えるのは自分の勉強になるし、一緒に投げ込みをするのは楽しかった。あの頃の私のように、逆にうまくなったドーンさんが私の練習相手をしてくれないかなあと、ひそかに期待した。
しかし、ドーンさんは私の15倍も背や体重があり、いざというときに巻き込まれる危険が高かった。それでなくてもふざけるのが好きで、口やら足でけしかけてくる。昔、ビシバシとしごいた「し返し」をしてくるのだ。そのくせこっちが真剣に技をかけると、こらえきれずによろよろと寄りかかってきたりもする。本人も私も予測が付かないのは危ない。しかたなくあきらめた。立ち技でなく寝技の約束練習だったら出来るかも、、、と思ったが、ドーンさんは寝技が嫌いだった。始めてすぐの頃、「3段のおじさん」に首を絞められて以来、すっかり嫌いになってしまった。そのうちにね、といいつつ、とうとう一度も寝技の相手をしてくれることはなかった。
復帰したばかりの例の2段の既婚男性なら、適任かもしれないと思った。彼なら身のこなしがうまいし、家族も2人、膝の手術をしていてよくわかっている。声をかけたところ、彼の反応は散々だった。「こんなにすぐに道場に来て、柔道バカか?」「筋トレのために、練習が必要です。弟さんも、膝の手術後、筋トレしてたでしょう」「……弟は柔道なんかやってない。手術して3年、もくもくと水泳で体力を付け、ようやくスポーツ復帰したんや!」すごい顔でにらむと、その後口をきいてくれなかった(わたしゃ3年もよう待てまへんがな、、、)。最後の頼みの綱は、一緒にマスターズ大会を目指す予定で、病院にお見舞いにも来てくれた3段だ。彼はいつまでたっても復帰してこない私を待ちきれず、7月に入って道場にあまり来なくなってしまった。相手がいなくては、形の練習は出来ない。こうして、受け身も打ち込みも、形の練習もできず、道場では暇だった。見ているばかりでは時間がもったいないので、家と道場の間のランニング時間を増やし、しだいに道場で過ごす時間は少なくなった。
ところが、である。猛暑とランニングが功をそうして、私のからだは日ごとにやせはじめた。腹の立つことに、筋肉の消耗で体重が落ち、かわりに脂肪率が増加していく。こんなはずじゃあ、、、当初の予定では、5月から形で筋力を付け、柔道の感覚を少しずつ取り戻し、慣れた6月頃から相手付きで「打ち込み」を始め、秋には早ければ「投げ込み」をするつもりでいた。目算が狂った。当たり前である。週に1~2回道場で鉄アレーを握って、脚の力が付くはずが無い(鉄アレーは悲しいかな、腕力の一部しかつかない)、仕事と合唱の練習が忙しく、家でのリハビリの時間はほとんど無く、道場が唯一だったのも災いした。こんなことなら、退院後からしょっちゅう滝川先生の整骨院に通って、近況報告をしておくんだった。道場で練習さえできていれば、こんなまぬけなことは起こらなかったのに。信州で国体選手としてサッカーをしている友人に、「魔の二週間」以来のリハビリ失敗の愚痴を言うと、「私なら、切るのはイイ医者で切るにしても、最初から親しい整骨院のところで一貫して理学療法とスポーツリハビリとをうけるなあ」と、言われてしまった。そう、私は目先の最先端のトレーニングマシーンや最新のスポーツリハビリにとらわれすぎて、私を心配し一番理解してくださっている滝川先生をないがしろにしていた。本末転倒だったのだ。
こうして、角谷に週二回ほど筋トレに通っていた4月末に比べて、2kgも筋肉をダイエット(10%近くも脂肪が増加)してしまった私は、よりにもよって念願だった筋力測定をいよいよ受けるはめになってしまった。ああ、6月の筋力測定の結果はいかに。次号に続く。

2011年5月23日月曜日

しもたま柔道&闘病日記-その34-

しもたま柔道&闘病日記-その34-
理学療法士とは、私にとってはスポーツ復帰のために助言してくれるマンツーマンの先生であると思っていた。受験のための家庭教師のように「この時期にはこの問題集だよ」とか、試験に向けて長期展望を持ち、欠点を克服し、長所を伸ばしてくれるものだと思っていた。ところが、理学療法士Q氏やY氏のイメージするリハビリは違った。自主性を無視し、全てをマニュアル通りに管理した。“スポーツやリハビリに無知な者”を扱うように、、、ふと私は、最近の子ども達も学校で、教師にすべてを監視され、こんな気分を味わっているんだなとも思った。彼らは、豚や鶏の群れを飼育するように、検査や測定をし、悪化しないよう行動を管理しようとした。彼らは患者に、リハビリをまかせるたがらない。何かあったら、責任は取りたくないから患者を管理する。信用されずに頭ごなしに叱られるから、多くの患者はかえってやる気が出なくなるのだが、、、。

こうして、家の近くでもりもりリハビリをしようと欲張ったところ、「魔の2週間」のせいで、逆に回復を遅らせてしまった。やっぱり、切ったところで診てもらうに限る。主治医に嫌われた以上、海南でリハビリは続けられない。角谷に戻るしかない。問題は誰がリハビリを引き継いでくれるかだが。海南のあの温厚な理学療法士、そして、私を選手として扱ってくれたスポーツドクターと別れるのはつらかった。翌週、松葉杖を返しがてら、スポーツドクターに会って、診てもらったばかりなのにもう病院をやめることを告げた。ドクターは驚いていたが、「4月からランニングができるように、角谷に紹介状を書いておきます」と約束してくれた。かすかな希望の火がともったことに、感謝した。
面の皮を厚く、平気の振りをして角谷に舞い戻った私。岩崎医師は気持ちよく受け入れて下さった。そして、自分の過ちではないのに、その病院の医者の態度をゆるしてくださいと、私にあやまって下さるのだった。転院した私に、「ほれ見ろ」といっても仕方が無いのに、どこまでも理想の医師の態度をつらぬく、ありがたい先生だ。
一方、理学療法の部屋に行くと、担当はまたもやY氏だった。Y氏も嫌な患者が舞い戻って、不幸だったことだろう。Y氏は過去のことは良いことも悪いことも全て水に流して接してくれた。つまり、角谷を去る時どんな足の状態でどれだけリハビリが進んでいたか、全く覚えていなかった。私のリハビリは、入院中のレベルにまで落ちてしまった。
「魔の2週間」の後、膝の腫れが引いてきてリハビリやる気満々の私は、適切なトレーニングに飢えていた。
Y氏のリハビリ手順はいつもこうである。まずどのくらい関節がゆるいかを最初に確かめる。まるで重度のアル中患者のような手つきだ。膝の奥の靭帯が振動し気持ち悪くなってくる。それでも、その儀式が終わらないと次のステップに移らないので早く終わることを祈って我慢する (ちなみに、膝をゆするとかえって回復が遅れる。最悪の場合は靭帯をいためる)。続いて、「まだ膝頭は傷みますか?」と必ず聞いてくる(膝頭に痛みを抱えているから、揺すると痛いと思い込んでいる)。「膝頭はまったく痛くないです」と何度言ってもすぐ忘れるので困惑する。他の患者と混同しているらしい。痛くないというと、私に診察を拒絶されたと思い、困った顔をしている。つづいて、足首を持って筋トレだ。足首を下に引っ張りながら前後に動かすので、膝が抜けそうでこわい。機械を使って筋トレするほうがよっぽど安全だと思う。多くのお年寄りがリハビリに行くと余計に悪化するとぼやいている気持ちが良くわかる。
仕事が熱心で几帳面な方なだけに、今さら「他の理学療法士にして欲しい」と言い出すきっかけもつかめず、私は悶々としながらリハビリに通った。そのころ、私の自主トレは日頃のウォーキングと自転車の他には、「ハーフスクワット」と、「かかとあげ」だった。このメニューははるか昔の入院中にトレーナーの西林さんに健脚の右足用に組んでもらったものだ。その後、岩崎先生の指示で両足で行うようになったが。そして、海南で習ったスケーテイング(アイススケートのような動作)。たったそれだけだった。
私は自己アピールを惜しまなかった。「もっと、いろいろできます。筋トレを増やして下さい」と、思い切ってお願いしたところ、こんな指示があった。「まず(座って足を投げ出し)足の甲をのばしたり爪先をあげたりを10回して下さい。それから寝転がって足を空中に持ち上げて数秒我慢して下さい。」目が点になった。それは私が術後4日目に行っていた、ごくごく初歩のトレーニング内容だったからだ。毎日2km歩いたり、たまに数km自転車にのったりしたりして、足首の筋肉はしっかりしていた。正座事件で筋肉が落ちたというものの、そこまで筋肉が無いわけではない。高校生が受験を前に、ひらがなや九九の練習をしているような、そんな気分を味わった。寝る間を惜しんで遠距離を通院する時間がもったいなかった。
春休み、私は筋トレを兼ねてみかん畑に繰り出した。柔道はさておいて、今年の11月に収穫作業に復帰をするために、畑仕事のトレーニングだ。始めは平らな畑で、短時間から始めた。1本の木につき何度も屈伸をする。土の地面に立つだけで、バランス感覚を培う効果もあった。4月の私は希望に満ちていた。ランニングができる日が来ることが心の支えであり、リハビリを続けるモチベーションだった。筋力は日ごとに高まり、柔軟性も高まり、短い時間なら正座ができるほど膝が曲がるようになっていた。私は再びY氏に、さらに進んだ筋トレを組んでくれるよう頼んだ。するとY氏は、ゴムバンドを使ったリハビリ方法を教えてくれた。ゴムを足に巻きながら、腿上げや開脚をするという。ようやく、筋トレらしくなってきてうれしかった。Y氏はしばらく考えてから言った。「ホームセンターで一番弱いゴムを買って下さい。」一番弱いゴムというのは、付けたかどうだかわからないほどの弱さで、手で簡単に引き千切れそうだった!!まるでコントの世界だ。ただ笑うしかない。
Y氏にわかってもらうには、筋力測定を受けるしかない。 Y氏は検査を重んじ、科学的数値に信頼を置いている。数値で私の筋力を知ったなら、きっとふさわしいリハビリを組んでくれるに違いない。私は診察で岩崎医師に、筋力測定を希望した。しかし、事情を知らない岩崎医師は笑うばかりだった。「今、筋力測定をしても、思ったほどなくてがっかりしますよ。6月頃にしなさい」。私はすぐさま623日の検査を予約し、代わりにレントゲンを撮った。結果、骨の硬化も順調で、重い荷物を持っても大丈夫。軽いハイキングもOKという。背負い投げで相手の体重が乗ってきても、もう理論上は、関節に関しては大丈夫ということだ。ただ、相手のある「打ち込み」はまだ止めておくようにと言う。筋肉が伴わないと、肉離れを起こしたり、靭帯に負担がかかって危険なためだ。6月の筋力測定で安全を確認したらOK。ということは、5月に筋力測定だったら、5月に許可がもらえ「打ち込み」ができたのになあと思った。が、あせらなくても自分さえしっかりしていれば筋トレはやり遂げられると、まだ信じていてた。筋力測定の結果がよければ、7月から柔道の打ち込みや投げ込みができる。早ければ、秋には「乱取り(試合形式の練習)」ができるかもしれない。1年もあれば、練習試合できるまでに動けるだろう。そして、リハビリの遅れを取り戻すのだ。
そのころ、角谷整形外科では、理学療法室の大改革が始まっていた。まず、たくさんあったトレーニング機器は半分に減り、その空間には新しいベッドが置かれた。そして、新卒の理学療法士を大量採用したのである(われらがY先生も新人が付きっきりで、Y先生から技術を学ぼうと懸命だった)。私が遠方からリハビリにくる目的のひとつは、この機器だった。上半身の筋肉を落とさないように、油圧式や空気式の機器を使ってのトレーニングは、手術前から、かれこれ半年は続いている。その機器が無くなって、練習量が半分になったという訳だ。私は、柔道場で筋トレをすることを願い出た。道場には鉄アレーやゴムバンドがある。週に2回の和歌山通いを1回に減らし、そのかわり道場に週に2回通えば、充実したトレーニングができる計算だった。
「練習量を減らしたい」Y氏に相談すると、あっけなく意外な答えが返ってきた。「もう、ジョギングをしてもいいし、一人でするスポーツなら何をしても良いですよ。サポーター無しで筋トレしてもいいです。もう、筋トレに制限はありません。柔道場では、相手のない練習だったらどうぞお好きなように」。足首体操の次はいきなり無制限ですか?!同じ4月なのに、極端な対応だ。が、私は素直にジョギングの許可を喜び、柔道場に戻れることにわくわくした。まずは、柴犬との散歩で短い距離を駆け足で走ってみて、調子が良さそうだったら柔道場の往復を、走っていくことにした。来年夏の試合に向けての練習が、いよいよ目にみえて来た気がした。

しもたま柔道&闘病日記-その33-

しもたま柔道&闘病日記-その33-
だが、不安は適中した。次のリハビリの日、いつもは温和な担当の理学療法士が険しい顔をしている。そして、私に尋ねた。「“無茶をする”って、どういうことですか!!」“無茶”事件のほうか!どうも、カルテを書いたのは主にQ氏のほうだったようだ。CPMを十数時間したときのことだろうか。それとも、術後1週間でスーパーに見舞い客のためのコーヒーを買いに出かけたことだろうか。室内履きの靴を脱がそうとして、私の足をひねられたことだろうか。それとも、早く退院させてくれと岩崎医師に泣き付いたことだろうか(私には心当たりが山のようにあった!)。そもそも、入院前からきちんと筋トレをしていることをQ氏は快く思っていなかった。「そんなにやっても、どうせ筋肉は落ちるんや、やめとけ」って、よく言っていた。筋トレのし過ぎのことを言っているのだろうか。Q氏が無茶という言葉を吐きそうなシチュエーションを探ってみたが、どれももっともらしく、どれも確信が持てない。私はひとつだけ、確信の持てる話をした。「私が無茶と言われるのは、果樹園で肉体労働をしているからかもしれません。収穫作業時は、たとえ病気であろうと丸一月は無休で働き続けなくてはならない。収穫期の後に、病気や過労や不注意の事故で死ぬ人もある。私も職業柄、筋肉を酷使して、倒れるぎりぎりまで頑張ってしまうところがある。その話をリハビリでしたところ、理学療法士に無茶なといわれました。彼は、農業の厳しさを知らないから驚いたのでしょう」と。「なるほど、、、」というものの、これまでのような暖かな言葉はなく、やはり無茶をするからと、少なかったリハビリは更に減らされてしまった。目の前が真っ暗になった。
病院や先生の引き継ぎは重要である。私は、最初に和医大の整形外科から角谷整形に移った。このとき、本気で柔道をしていること、和医大ではなく角谷を選んだのはスポーツ復帰のリハビリのためだということが、まず、正確に伝わっていなかった。そして、理学療法士から理学療法士へ、病院から病院へ、肝心な情報はつたわらず、不確かな情報ばかりが一人歩きしてしまった。大袈裟といわれようと、生意気といわれようと、今の時代はきっちり自己アピールすることが必要である。謙虚や謙遜は美徳ではない。今回は、まざまざと思い知った。
魔の2週間。手始めは「むちゃな患者」というレッテルだった。膝が順調に治り、日常生活を普通に送り、柴犬の散歩もでき、柔道も復帰目前というときに、たった1つのカルテが私をどん底に突き落とした。柔道やサッカーでトップレベルに戻りたい、教員として正規採用に復帰したいと言う思いは、復帰のためなら、ありとあらゆる努力を惜しまない行動に現れていた。しかし、その努力を正当に評価する人は少なかった。海南の理学療法士達は、間違ったうわさを信じ、私を我侭で勝手なことばかりする「不良患者」とみなし始めた。「果樹の収穫時期だから」頑張りすぎるという言い分けも通じなかった。

しもたま柔道&闘病日記ーその32-

しもたま柔道&闘病日記ーその32-

退院した私は、2005年1月17日より職場に復帰した。バイクと電車とバスを乗り継いで。和歌山駅にもエレベーターが設置されていたのは幸いだった。「しゃば」にでて学習したのは、子どもよりも大人が、とりわけ日本人中年男性が一番危険なことである。通行時には誰にでも扉を開けておく習慣のある外国人と異なり、日本人男性は、自分が優位であり、職場の上司か客でもない限り通行時にゆずらない。男性同士ならぶつかるのもいとわず、ぶつかられるのがいやな年配者や女性、年少者が逆に譲ってくれることに慣れている。したがって、ドアを通過するときには出会い頭にほぼ間違い無く、真っ直ぐぶつかってくる。だが私は避ける事ができない。なぜか。人を前方に発見し、進路をひと1人分くらい横にずらすまで、当時(20051月、34歳)の私は、約3秒はかかっていた。つまり、秒速2mで歩く人をよけるには、6mくらい手前で人を発見したときから横へ動き始めていなくてはならない。ドア付近の出会い頭では、それが間に合わないのである。しかし、相手は中年日本男児である。「なにをこの小生意気な」と言わんばかりに、避けない私を睨みつけつつぶつかってゆく。倒れでもして靭帯が切れたら一巻の終わりの私は、その男が去るまで恐怖にさらされ続ける。2番目に恐いのはスーパーで買物中の女性達である。短時間のあいだに買って帰ろうと、目が商品に向いており、私の松葉杖まで視界に入らないらしい。カートの勢いよろしくぶつかってきたり、杖に「足払い」をかけにくる。一方の子どもは、ふざけたりよそ見したりしているわりに運動神経がよく、さっさとよけて走っていってくれる。中学校の生徒達も、とても親切にいたわってくれた。松葉杖をつきながら子どもや若者といて、恐いと思ったことは一度もなかった。これからの未来も捨てたもんじゃないね。そんなわけで、いくらエレベーターやら箱ものでバリアフリーを歌っても、人々の意識が変らにゃ障害のある人は街に出て来れないんだなあと、手術をしてから痛感した。一見“紳士淑女”そうな人よりも、いかつい“おあにいさん”が、エレベーターのボタンを押しつづけてくれたりするのが、世の中なのである。

そのうちに「中学校の仕事の帰り道」というにはJR和歌山駅から歩いて10分の病院は遠く、出勤が早朝、帰宅が深夜になるのは身体がつらく、なんとか近くの病院に移れないかと思い始めた。スポーツ復帰に頼りにしていたトレーナーの西林さんが3月でやめるといううわさも要因の一つだ。さらに悪いことは重なるもので、理学療法士のQ氏が、受験生の親にたのまれ断れなかったらしく、雑談中に中学校の入試情報をあれこれ探りを入れてくるようになり、入試についてはタッチしていないと説明し続けるのがおっくうになってきた。しかも彼は、入院中に私を、ニューハーフとたまに間違えた「つわもの」である。明るいラテンなノリの男だが、あまりに失礼な誤解であったので、出来るだけ、個人情報漏洩や職場の機密につながる深い会話を避けていた。
私の仕事も3月までなので、病院を和歌山市にこだわる理由はない。岩崎先生に転院を希望すると、2月に紹介状を書いてもらえることになった。こうして病院探しが始まった。有田の病院では、お年寄りの日常復帰のリハビリが中心で、スポーツ復帰を目的としたアスレチックジムを備えている所はなかった。滝川柔道場の高校生の紹介で、海南のとある整形外科に見学に行った。それはそれは素晴らしい設備で、最新のトレーニング機器がたくさんあり、さらに週に一回、有能なスポーツドクターが来て競技復帰を支えてくれるという。
そこは、封建的な地方病院ではなく、私を一人の柔道選手として扱ってくれた。私は、海南の病院に移ることを決めた。
転院した最初は、とてもリハビリが順調に進んでいた。新しい病院は家から30分と近い上、担当になった理学療法士は温厚な方で、トレーニング中はずうっとつきそって、足に負担が無いよう器具を調節していてくれた。右の靭帯も伸ばしている私は、手術していない足でもかばう必要があり、その事をよく理解して下さった。説明もわかりやすく丁寧だった。いっそうすばらしいことに、スポーツドクターの診察で、一番始めにかけてくれたのが「ところで、いつ、競技復帰の予定ですか?」という言葉だった。涙が出そうになった。きちんと、競技者として扱ってくれている!和歌山でこの言葉を聞くのは初めてだ。私は一瞬、来年の6月末のマスターズ大会(年齢別の大会)を思い浮かべたが、さすがにそのまま伝えるのはいくらなんでも傲慢に思い、謙虚に「来年の夏の大会です」とだけ答えた。「今年の夏ではないんですね?」ドクターはけげんそうに聞く。「早ければ4月からランニングを開始できます。メニューを組みましょう」こうして、練習量こそ角谷整形のリハビリの半分に減ったものの、内容の濃いリハビリが始まった。もしかして、本当に来年夏のマスターズに間に合うかもしれないと思うと、切ってよかった、転院してよかったとしみじみ感じた。せっせとリハビリに精を出した。
雲行きが怪しくなったのは、1週間後のことだ。担当の海南の理学療法士が、「角谷にリハビリのカルテを送るよう頼んだら、今日、チーフのK先生が直接(海南まで)持ってきてくれるそうです」と言う。なにか、不安な影がよぎった。角谷で手術直後からの担当の理学療法士Q氏(世間話はうまかったが、理学療法士としての技術は不明。伝達ミスが多く、本当の理学療法士かと、今では思う)とは、学校のことなど世間話ばかりで、治療や柔道の話をあまりする機会が無かった。彼の書いたカルテだろうか?カルテに、「中学校受験の選抜方法について、患者は知らないという」とか、書いてあるのか?それとも、転院間際に引き継いだY氏(彼は私のことを、かなりビビッており、脚を持つ手が震えていた。Q氏から、引継ぎで何を聞かされていたのかと想像する。まさか、変態ニューハーフネタではあるまい。労基署がらみの、例の中学校の事件か?)の書いたカルテだろうか? Y氏とは海南に移るまでの取り合えずの“リリーフ投手(引き継ぎ)”と割り切ることにして、当たり障りのない会話をしていたから、 Y氏は私のことをよく知らないはずだ。ただ以前、Y氏の診察時間に間に合わないことがあった。受付担当の女性に、「Y氏はずうっと待っていたんですよ!!遅れるときは事前に電話くらいして下さい!」と、頭ごなしに叱られてしまった。前のK氏はラテン的な人だったので、仕事が忙しいなら来れる時間にくればいいよと言ってくれていた。引き継いだY氏も、自分がいないときは他の人に頼みますからと言ってくれていた。私はお二人の言葉にずうっと甘えていた。しかし、受付の女性にはそのことはまったく伝わっていなかったらしい。長距離通勤と長時間勤務で、疲れていた私は、治療を続ける自信を失い、「忙しくて時間どおりに来れないことは先生に言ってあります。通院はもう無理なので、これからは自分で自主トレします!」とたんかを切って帰ってきた。その後、Y氏とうまく和解し、リハビリは続いていた。生活に役立つ情報をY氏がいろいろ教えてくれるなどし、表向きは平穏にすぎていた。しかしそのトラブルがカルテに書いてある可能性は充分にあった。再婚先に前の家族が秘話を持って押しかけるかのように、カルテ到着は不気味だった。私は、何事も起こりませんようにと、祈るばかりだった。
悪いことは続くものである。最悪の2週間の続きは次号にて。      

しもたま柔道&闘病日記ーその31-

しもたま柔道&闘病日記ーその31-

私が柔道復帰するには、正しいトレーニングで地道にやるしかない。2004年1月2日に怪我をしてからの1年間、あまり運動をしなかったので、大腿部の周囲が10cm近く細くなっている。そして、これからしばらく歩かないから、さらに細くなるという。究極のボディビル、肉体改造がこれから始まろうとしている。
最初のリハビリは、自動マシーン(CPM)で膝関節を動かすものだった。これは、新しい靭帯に負担をかけないように、徐々に膝の可動域を広げていくストレッチのようなものだ。術後1週間目から行った。医師によると、毎日15度ずつあげて行って、120度まで曲がれば退院できるという。理学療法士Q氏が寝る前に来てセットしに来た。寝返りで誤作動しないようにと、私が数値をいじれないようにして帰って行った。翌朝のリハビリでQ氏は尋ねた。「1日何時間くらいCPMを使いましたか?」そのとき、寝る前と起き抜けの1時間ずつトレーニングしていたので答えた。「2時間くらいです」「ええ!一日たったの2時間?」私は、Q氏の言葉からCPMは長時間するものだと解釈した。1月から仕事に復帰するつもりだったので、3~4週間で退院するべく、せっせと食前食後に機械を活用した。ところが、Q氏は忙しいのか、病室に全く現れなかった。他の患者もQ氏の態度を不審がって、「あんたがリハビリをサボるから病室に来ないんじゃないのか?」「もっとマジメにCPMやりなさい」と言い始めたからたまらない。24時間暇な“ご隠居達”の監視のもと、私は毎日十数時間もCPMをさせられるはめになった。あとで、やり過ぎと、こっぴどく叱られるまで、、、

手術して10日経った。足は順調に治っていた。理学療法士Qの指示で足を持ち上げ、3秒間保持するトレーニングが始まっていた。家族が来るまでは、ジャージや下着の洗濯をしたり近くのスーパーに買い出し(自分のコーヒーや牛乳ばかりでなく、見舞い客用の飲み物など)に出かけたり忙しかった。2004年もあと1週間となり、有限会社の収穫作業も一段落。ようやく生野の実家の親や義兄らも、ちょくちょく来てくれるようになった。忙しいことをわかっていて12月に手術したのだから、しかたのないことだ。松葉杖の日常生活のお陰で、上半身や右足の筋肉が、手術前よりも増加していた。しかし、関節を伸ばしたまま固定された左ひざ関節は、日ごとに固くなっていった。本当にあと2週間ほどで退院できるのか?なんだか、雲行きが怪しくなってきた。
この日、岩崎医師の診察があった。「CPM(ひざの可動域を広げる機械)は、何度まで進みましたか?」「まだ、30度のままです」「毎日1015度あげるように言ったでしょう!」普段は温厚な医師が、この時は顔をこわばらせた。「私が動かせないように、理学療法士が装置をロックしているんです!」「看護婦に言いますから、あとで上げてもらいなさい」。私は、順調な回復を誉めてもらえると思っていただけに、衝撃を受けた。看護師さんは、機械のロックを解除すると、自分で角度を変える方法を丁寧に教えてくれた。その日のリハビリでQ氏に、「岩崎先生の指示でCPMを45度に変えました。」と告げた。「あっごめん!忘れてたわ~」とにやにや。Q氏は忙しくて病室をまわるのを忘れていたというのだ。あまりにあっけらかんとしていて、ラテン的なQ氏らしかった。「なかなか角度を変えに来てくれないので一生懸命、一日十時間以上していたんですよ」と、ちょっといやみっぽくいうと、Q氏は「そんなに長時間していたんか!なんて無茶な!」と絶句した。12時間の時は短くて、十時間以上は長いということは、本当はどれくらいやればいいんだろう。病室に帰った私は、他の患者の前で看護師さんにCPMのやり方を尋ねた。というのも、同じ部屋の患者は、やればやるほどいいと思っていたので、誤解をみんなの前で解くほうがいいと思ったからだ。看護師は言った。「長時間しても効果はありません。短い時間で、一日に何度もやるのが効果的ですよ。最初は弱く、だんだん強くなっていくでしょう。いきなりやると関節に負担がかかるからです」。私はこの言葉でCPMの意義を知った。CPMはストレッチ体操なのだ!と。看護師はいつも指示が簡潔で適確だった。
もう1人、私には心強い味方がいた。スポーツトレーナーの西林さんである。彼女は頭の回転が速く、説明が具体的で分かりやすかった。例えば、「歩くためにどんな筋トレが必要か」という質問に対し、「その前に、忘れてしまった歩き方を思い出すこと(イメージトレーニング)から始めましょう」と、リハビリの初歩から、順序立てて教えてくれた。人は、1週間も寝たきりだと、歩くための筋肉の使い方を忘れてしまう。力を入れているつもりで、大腿部に力が入っていない。具体的に目で見てわかるように説明してくれた。後に、スポーツ復帰に際しても、神経の感覚を取り戻すこと、筋肉のバランスが大切であることを教えてくれた。日常のリハビリが終わったあとも、スポーツリハビリを根気よく続けてくれた。彼女のお陰で、なぜ足裏を空中に持ち上げたままトレーニングすると危険か(脚のどこかを床につけたままが良い。不安定な要素が増えると、靭帯に負担がかかる)、大腿部の伸筋と屈筋の両方を使ってトレーニングすべき理由(屈筋が縮む事で、靭帯が伸びるのを防いでくれる)といった事が、科学的に理解できた(左大腿部のハムストの屈筋を、トレーニングにより一生涯維持しておかないと、再建した靭帯に直接負荷がかかってしまい、もう一度靭帯断裂につながり、危険である。なぜなら、2回目の手術は、右のハムストから筋肉を取らねばならない。つまり、両足の手術のために車椅子に何ヶ月も乗ることなり、つまり、リハビリを失敗すると最悪、二度と歩けなくなる)。そして、長期的視野で持って、今行っているリハビリの自分の位置を把握させてくれた。彼女のお陰で、何人もの患者が、スムーズに日常復帰、スポーツ復帰していったことだろう。もっと、給与や待遇が、評価改善されるべき人だ。
病院で今年のクリスマスと正月を過ごすことになった私は、正直、あまり期待していなかった。ところが、角谷整形外科の病院食は“素晴らしすぎる”のである。もともと、どんぶりいっぱいのご飯に、こってりしたおかず。とても病人食とは思えない、「整形ならでは」の食事だ。(脂肪と炭水化物がやたら多くて、肉体労働者向きである)。それが、さらにパワーアップ。1224日のクリスマスイブの昼食は、鶏のもも焼きとショートケーキが出たから驚きだ。31日の年越しそばに、かきの炊き込み御飯、正月3日間は餅が二個も入ったお雑煮に日替わりおせち料理。なにもしないと、ぶくぶくと太ってしまう。「食べた分、しっかりリハビリしなさいということか」と、カロリーを消費すべく、一日2回せっせとアスレチックジム通いに勤しみ、病棟ではバレエの基本練習のように足を持ち上げて保持したり、ストレッチをしたりとリハビリに励んだ。入院前は仕事疲れでぼろぼろだった私は、退院する頃にはかなり筋肉量が増し、1ヶ月禁酒したこともあり、かなり健康になって帰れた。
さて、足も曲がるようになったし、さあ退院しようと思い、正月あけに岩崎医師にその事を告げると、装具無しで仕事をしてはいけないと言われて困ってしまった。装具さえあれば、いつでも左足に荷重をかけてもよいという。私は術後が順調であり、すぐに退院できるものとばかり思っていたので、寝耳に水であった。装具屋は年末年始が休みだった。学校の授業は1月11日から始まる。つまり授業に間に合うように帰ろうと思ったら、年末までに装具を注文しておかねばならなかったというのだ。「そんな大事なこと、もっと早く言ってくれ~!」と思ったが、岩崎医師の最後の診察の頃にはまだ、足が30度のまま(例の手違いでQ氏が、私が自分でCPMの角度を調節できないことを忘れていた)固まっていたわけだから、岩崎医師もまさか、正月あけに110度も曲がっているとはよもや思わなかったに違いない。私の足はすでに110度以上曲がっていて筋力があり、いつでも杖なしで歩ける状態なのに、装具がないばかりに松葉杖をつかざるをえないジレンマ状態だった。焦る私に岩崎医師は言った。「一生のうちで今がいちばん大切な一ヶ月です。今さえ我慢したら、いくらでも働けます。退院を急がない方がいいですよ。たとえ装具をつけたとしても、最初は三分の一荷重。それから二分の一荷重、少しずつです。急には動けないことをわかってほしい」。正論である。しかし、私は非常勤講師という不安定な身分。給与の+αで中学校ともめた経緯もある。始業式直前になって、「まだ仕事できません」「いつ仕事復帰できるか皆目わかりません!」などと言えない。せめて年末に分かっていたら、代りの教師を探せるものを、このままでは同僚の先生や子ども達に迷惑をかけてしまう。自分の良心が、「無責任はよくない」と叫んでいる。医師やリハビリ師の目には、文句が多くて、扱いにくい患者にみえたことだろう。だが私は、せっかく得た仕事を辞めるつもりがなかったから、必死だった。
熱意は報われた。その日のうちに岩崎先生が言ってくれたのだろう。理学療法士のQ氏が、三分の一荷重の許可が出たことを教えてくれた。仕事を辞めずに済むかもしれない。翌日の1月7日、装具をあつらえるための計測を行った。14万円の装具は3週間かかるが11万の装具なら1月14日には届くという。迷わず安くて早い11万のを注文した。そして泣く泣く附属中学校に「1月14日は学校を休みます」と電話した。
待ちに待った1月14日、装具が届き、岩崎医師の診察があった。「寝るとき以外、装具を着けて下さい。装具を着けていれば、膝を(ハーフスクワットまで)曲げてもいいですよ。少しずつ、杖なしで練習して下さいね」と、岩崎医師。「杖なしで歩けるようになっても、人込みでは杖を持ってて下さいね。足が悪いことを分かってもらえますよ」と、看護師さんも言い添えた。そして、早速、全荷重で片杖のリハビリが始まった。始め、足の裏がふわふわとして落着かなかったが、なんと!すぐに歩けてしまった。トレーナーの西林さんがいなければ、ここまで早く回復できなかっただろう。
そして、翌1月15日に帰宅したとき、私は杖なしでも難なく歩けることを発見してしまった。歩けるのは嬉しいけど、歩いていいんだろうか?岩崎先生のお言葉、「装具をつけても最初は三分の一荷重。それから二分の一荷重、少しずつですよ、、、」がよぎる。三分の一荷重になれたのはたった7日前。昨日、全荷重で練習し始めたばかり。同じ入院患者でも、全荷重の許可が出て何週間も経っているのに、恐くて杖が離せない人を見てきた。私は無謀なのだろうか。手術前の筋肉を落さないように気をつけていたため、そんなに脚力はやせていなかった。
もう、自由に歩ける!これには、我ながらびっくりだった。だが、まだ、前にしか歩けない。人を横によけることも、退く事もできない。看護師さんの言う通り、他人に足が悪いと気付いてもらい、相手に避けてもらわねばならないのだ。学校の通勤は、特にラッシュで危険なので、杖をしばらく飾りで持ち歩くことにした。

ところで、足の悪い人は、よく、幅広のスリッパを履くのだが、年配者や筋力の落ちた人には、躓く原因だと思う。私は普段は、イボのついた健康スリッパを良くはいており、足裏に刺激を与え触感が良いが、松葉杖には向かない。これに対し、何気なく家で履いた小さなスリッパは、足幅が狭く、足の指が自然とグーにぎゅっとなった。こういった婦人物のいわゆる「突っ掛け」と呼ばれるかかとが高いやつや、フリークライミング用の一回り小さいシューズ、ダンサーの履くバレエシューズのようなやつは、術後に試しに履いてみると、少ない大腿四頭筋で、軽く動き回れることが判明した。思うに、前重心になって踏ん張れるハイヒールなどは脚が長く見える見た目の良さばかりでなく、おそらく、高いところのものをとったり、裾の長いスカートで脚裁きよく歩き回ったりするのに動きやすく、高い椅子に座るための、西洋人の知恵であろう。着物正座文化と、洋服椅子文化の共通点か。
これまで婦人物のシューズやスリッパはおしゃれだが足首に悪そうだなと勝手に思っていたが、力のあまり無い女性のためにある履き物でもあるのだと、手術して体力を失ってみて考え直した。そして、「突っ掛け」「ハイヒール」などというものを毎日履いている女性の足は、細くまっすぐに矯正されるんだろうな、と。


以降、リハビリの様子は次号に続く。 

しもたま柔道&闘病日記ーその30-

しもたま柔道&闘病日記ーその30-
世間では、杖や車椅子を使うのは比較的簡単だと思っていて、杖や車椅子を嫌がるお年寄りを、ただの我儘と捕らえがちであるが、やってみると30代の菰池でも、意外に大変である。車椅子は、小柄な人に難しく、杖や松葉杖は体重の重い大柄な人に不向きである。
私は手術直後に車椅子に乗ってみたとき、まるで水泳のバタフライだなあと思った。椅子は広くて低く、大きな車輪がわきから離れた上部にあって、力が入りにくい位置にあった。車椅子は本来、使う人の障害や、体形に合わせてオーダーメイドされる。ところが、病院や施設の車椅子は、100kgの人まで使えるようにということで、座高の高い大きな男性のためのサイズなのだ。こぐにはとても力が要る大きな椅子に、小柄なおばあさんであっても乗せられる。馴れない人は、車椅子の足置きに足を乗せることから覚えないといけない。歳を取って、記憶力や体力が低下してから練習するのは結構大変だ。
また松葉杖の場合は、別の問題がある。もし身体が大きな人ならば、自分の重い体重を二本の腕で支えるのが大変だ。大きな柔道選手の中には、杖がつけずに術後2週間も車椅子を使うという。体が細くて腕力がない人も大変だ。これまた二本の腕で支えきれない。体重を松葉杖の先の小さな2点に乗せて、バランスを取るというのは案外難しい。年寄り臭い小道具の代表、1本杖は、腕力のないお年寄りが寄りかかるのは、とてもこわく技術が要ると思う。杖を使うとよけいに動きが不安定になる。杖さばきに神経が集中し、足運びにまで注意がいかない。こうして、腰が曲がっても杖はつきたくないというお年寄りが多いのだと思う。足が元気なうちに、全ての人が松葉杖や一本杖の練習をしておけば、いざというときにすぐ使える。山の会に入っている方々は、登山の杖やピッケルでなれていらっしゃるから、いくつになっても杖さばきが巧みで活動的になれること請け合いである。
さて、小柄な割に腕の筋肉がある私、菰池の場合である。松葉杖を使うのはとても有利であった。こんなわけで私は、手術の翌日からさっさと松葉杖を使い始めた(車椅子は大きな荷物を運ぶときと体が疲れたときだけに決めた)。松葉杖を使うと、特別にトレーニングしなくても腕に筋肉がつくし、元気な右足が弱らなくていいというメリットがある。以前、右膝の内視鏡検査をしたことのある私は、筋肉が落ちるとどんなに大変か、よくわかっていた。たった1週間の入院だったが、退院してすぐに家の中の小さな段差につまづき、不自由な思いをした。段差のない病院にいると、いつのまにか筋肉が落ちて、あがっている上がっているつもりの足が上がらなくなるのだ。1週間で落ちた筋肉を取り戻すのに、23週間近くかかった。スポーツ復帰に6ヶ月もかかった。そんな失敗をしないよう、今回は退院までに筋トレをし、段差を克服しておこうと心に決めていた。ベッドの上で、手術した左足にじっとしながら力を入れるトレーニングをかかさなかった。歩くイメージトレーニングも時々行った。それらが、術後一ヶ月で杖なしで歩けることにつながったと信じている。
2日目に麻酔医からもらった座薬を早速使ったがあまり効かなかった。さらに飲み薬の痛み止めを飲むと、しばらくして効いてきて、その夜はとりあえず楽に眠る事ができた。手術3日め、全身のむくみもとれてきた。麻酔医から痛み止めをもらっていたが、昼間の足のうずきは続いていた。なんかおかしいなと思って、いろいろ調べていてようやく原因を発見した。なんと、サポーターの支柱のせいだったのだ。手術から2日経つと、ぐるぐる巻きのぶ厚い包帯もうすくなった。そこへ、サポーターの金属の骨が、ガーゼむき出しのひざ裏にごりごりとあたっていたのだ(後で知ったが、ひざの裏のほうにつくったばかりの靭帯がある)。理由がわかってから、看護師さんらがかわるがわる来て、包帯をぶ厚く巻いてくれたり、いろいろしてくれたお陰で、痛みはほとんど感じなくなった。万歳!

筋肉を落とすのは簡単だが、つけるのは難しい。プロのプレーヤーは、スポーツ専門の医師や理学療法士、トレーナーがついて、最新のテクニックと機器を使い、短期間で復帰していく。理論と努力があれば、一般人の私であっても、同じくらい早く回復できるはずだと、下肢の術後のリハビリについて記された専門書を買い込み、来年の収穫作業、そして、柔道やサッカーに復帰するために、最善をつくそうとしていた。だが、本やインターネットに出てくるリハビリの例に出てくるのは、多くが10代~20代の若者であり、小さな子どもやしもたまのような中高年の例、女性の例など、マイナーな患者の場合の例は少ないのが実情であった。そして、これらマイナーな患者と言うのは、回復が遅く、目的意識が無く、リハビリが熱心ではないという医師やトレーナーの思い込みも手伝い、マイナーな患者に手術を勧めない医師が多いのが、手術例の少なさ、リハビリ例の少なさに通じていた。
整形外科で入院しているのは、角谷整形のような中堅の病院では、若者はスポーツや事故で、半月板損傷や骨折のための1~2週間短期入院が多く、少女より少年が多い。20代~40代では、仕事中の事故による怪我が多いため、ヘルパーで腰痛で入院していた若いお母さん以外は、ほとんどが男性患者である。そして、高齢者では、男性より女性が多く、股関節よりも膝を壊した女性が多かった。軟骨が磨り減る高齢者に女性が多いのは、なぜなのか。食生活によるのか、出産育児のせいなのか、立ったり座ったりしゃがんだり、和式トイレや正座の多い和風の生活によるのか、それとも女性ホルモンの減少による、骨粗しょう症によるのか。もし、洋風の生活によるのであれば、今の女子高生が高齢者になるころには、膝の人工関節の手術例が減るかもしれない。また、女性ホルモンや食生活によるのであれば、高校生の頃から家庭科や保健体育で生活指導することにより、改善する余地があるのかもしれない。
年代別で回復を比較する。30代になると、10~20代に比べ、筋肉がつくのに時間がかかる。骨折でも、骨の発育期の青少年は、大人の約半分の期間で回復することから、おそらく、筋肉痛の回復力や、骨と筋肉をつなぐ腱の太り方などが、大人より青少年の方が早いと推察される。また、中高年では、歯や胃腸が丈夫で、カルシウムや軟骨の材料となる食材をきちんと取れる人ほど、同年代でも回復が早いということももちろん大切である。だが、回復にはやはり術後、筋肉が減らないうちにいかに早く身体を動かし、骨や筋肉に適切な負荷をかけられるかという事であろう。
それにしても、女性の方が長生きしているためとはいえ、どうして整形外科の入院に、高齢者の女性が多かったのだろうか。たまたま入院した病院で、たまたま大部屋で目立ったのか。年配の男性に個室が多く、大部屋に年配の女性が多いのか。こういった統計資料は、どこかにあれば教えていただきたい。背中の曲がった人も、股関節や膝関節の悪い人も、欝や痴呆の人も、どうして年配男性ではなく年配女性に多いのだろう。自殺者に男性が多いのと関連があるのか。心神が不自由になり、働けなくなった男性は、働かないで生活することに本人や家族が耐えられず、自殺させられているのか?それがわかれば、生活改善にかなり役に立つと思う。ここに資料がないため、なぜ、年配女性に整形外科入院者が多いのか、原因を考えてみる。修論は、マウスが超音波を聞いたときの行動量と遺伝子の関係であり、雌雄や日齢出比較してた。こんなときに、学生時代の研究、ホ乳類の繁殖行動遺伝の実験の検証が参考になる。
男性と女性で比べると、女性の筋力の早期回復はかなり難しいと思われる。少ない筋力は、関節の軟骨や靭帯に大きな負担をかける。信州や和歌山にて、サッカーや柔道をしている独身女性の悩みの多くは、10代の頃の練習量を、いかに維持するかである。体育やクラブの練習量の減少、社会人になって、デスクワークや家事の増加等。女性のアスリートの場合、男性に比べて日常生活で消費するエネルギー量が少ない上、体の女性ホルモンが、筋肉の増加を妨げてしまう。国体出場レベルの女性に話を聞くと、彼女らの多くは結婚後、そして出産後、いかに早くレギュラー復帰するかで悩みを抱えていた。通常の妊婦体操では、現役復帰が間に合わないと、様々な情報交換を行っているのをよく聞いた。多くの女性が、昔は出産後に以前と同じ仕事やスポーツのレギュラーに復帰できなかった。出産後の女性達は、10代の若者や同年代の男性の何倍も努力して筋トレしないと、以前のような動ける体形に戻れないから、おそらく復帰が難しかったのだと思う(こういった復帰困難な理由について、今までまったく想像ができなかったが、今回、全身麻酔の入院と3週間のベッド生活により、こういう苦労なのかと身に沁みてわかるようになった)。
信州にいた1990年代当時、スポーツに復帰している出産後の女性というのは、子どもが小学生になり、ママさんサッカーやママさんバレーをしている人であった。つまり、子どもの手が離れてから復帰と言いながら、スポーツ完全復帰までに出産後、10年近くかかっていることになる。そして、彼女らの多くが、60代になっても、その後、トレーニングにより筋力をほとんど落とさずに走ったりしているところをみると、やはり、男性ホルモンの蓄積が筋肉の増強につながり、50代、60代になって、女性ホルモンが減少しているために、彼女らの筋力は、むしろ女性ホルモン値の高く、出産を経る20代よりも維持しやすいのではと思われる(性ホルモンは、男女共に男性ホルモン、女性ホルモンが分泌されており、その比率や分泌の時期に男女差がある)。
結婚後もスポーツを続けている人は、新興住宅街や都市部を中心に、今でこそ全国的に増えてきているが、漁業農林業の盛んな有田海草郡ではまだ少数派である。家事や農作業、パート労働をサボって、金のかかるリハビリに通うのを嫌がる家が多いのだろうか。そして、既婚女性の仕事やスポーツは(農林業では男性のスポーツも野球を含めて)、暇と金のあるときにだけやる「娯楽」扱いである。出会った医師の多くが、“女性”はリハビリをサボるから、手術は勧められないと考えている。女性のリハビリが続かない理由は“環境”にあると考えられる。仕事と家族とスポーツとリハビリ、4つ全てを全うしようと思ったら、地方都市の女性にはかなりの根性、根気がもとめられる。まず大きな負傷したときに、仕事を辞めるか、スポーツをあきらめるか選択を求められる。身体を壊した多くの女性は、まず金のかかるスポーツをやめ、無理して仕事を続けるのではないか。よって、仕事や子育てを終え、高齢になってからようやく手術を受けられるようになるのではないか。こうして、入院患者に高齢者の女性が多い理由を、菰池なりに、想像している。

しもたま柔道&闘病日記-その29-

しもたま柔道&闘病日記-その29-
手術した日の夜のことだ。喉の渇きは、限界だったが、水入れに手が届かない。3回くらいは、目が覚めたと思う。我慢できずに、そばにあったものを手にとり、簡易ベットで熟睡中の義兄をつついて起こした。突然起こされて、驚いていたようだが、ようやく水入れを手にとって、飲ませてくれた。水ひとつ自分で飲めないなんて! 手術前には1人で平気といっていたのに、もう、弱音を吐いていると思うと、情けなかった。義兄に入れてもらったコーヒーを飲みながら、朝食のパンを食べた。これからは、コーヒーが欲しければ自分で入れなくてはならない。いれてもらう最後のコーヒーだ。やがて義兄は帰っていた。「また、3日後に来るから」と言い残して。簡易ベットではあまり寝られなかっただろうに、これから一日、激しい果樹の収穫作業が待っている。さぞ、眠いくてつらいだろう。
術後一日目。朝から、見知らぬ男性が尋ねて来た。花屋さんだった。花瓶がないからどうしようと思っていたら、きれいな花かごでテレビの上にちょこんと乗せられる様になっていた。送り主は、山の会の古くからの友人、浅井さんと玉置さんだった。花は、何日も私や病室の人の目を楽しませてくれた。一日目はまだ体力があり、麻酔の効果も手伝って比較的元気だった。思ったほどうずかない。内視鏡を使って手術したため、傷口が小さい。ガーゼ交換のときに中を見たら、1cmほどの3つの「十字」が点在していて、一番大きな傷は、5cmほど。よくあるマンガの「傷」のような、線路のマークのような++++の形をしていた。左脚は足首から太ももまで、サポーターが巻かれている。30度くらい曲げた3本の芯が入った、とてもシンプルなものだ。完全に固定すると筋肉が落ち、関節が固まってしまい、その後のリハビリが遅れるため、この十数年でサポーターを使うように変わってきたらしい。足を浮かせながら松葉杖をつき、コーヒーを入れたりゴミを出したりしていたお陰で、筋肉が落ちず、リハビリは早かった。(静のリハビリ。関節を動かさず、筋肉を意識して力を入れて数秒固定するだけでも、筋力の極端な低下を防ぐことが出来る)。
もちろん、ベッドの上では動かずにおとなしく上を向いていた。チューブなどのせいで左右に寝返りが打てないため、いつも上向きに寝ていたのだ。だんだんと体重のかかる踵を中心に、体が痛くなっていった。床ずれである。同じ姿勢でいると体が痛い。水を飲むために上げっぱなしだったベッドを倒してもらった。
手術二日後の朝が来た。昨日とうってかわって、身体がだるい。動くと足に激痛が走った。ついに、麻酔が切れたのだ。起きれずにうだうだと朝寝坊していると、看護師さんが来て、髪を洗ってくれた。うれしい!寝汗で髪はべたついていた。でも今日は、前かがみで髪を洗うのは、足がうずいてつらかった。持ってきたパジャマも失敗だった。きつすぎて、サポーターの脱着や傷の手当てができない。結局、四六時ジャージを履くことになってしまった。「短パンを持ってきたら」と、看護師さんが教えてくれた。義兄に、すぐに短パンを持ってきてくれるよう電話すると、来れないという。急に在庫の温州みかん(早生)を全部出荷するよう電話があり、家族と親戚で箱詰めに追われているのだ。「一週間後の23日に行くから」と聞き、着替えが間に合うのか、とても心細くなった。
このころ、平成9年より始まった不景気により、関東で高級果実の贈答用が動かなくなり、「安価な家庭消費用を、正月に食べるため、年末までに買いたい」という需要が増えていた。これまでのように、関東在住の息子らが、東北や北海道の両親や知り合いに、和歌山のおいしいみかんを歳暮に送るというパターンが、高度成長期に東北から出稼ぎに来た世代に続いてきたが、退職や経済的理由により、「歳暮」そのものを贈る人が減り、さらに、東北や北海道でも安価に愛媛や和歌山のやわらかくおいしいみかんが、スーパーやインターネット等で簡単に手に入るようになって、東京のデパートでの購入量が減っていた。かつて東京では、おいしさよりも、大きく見栄えの良いみかんが人気であった。というのも、仏壇の前で、大きなリンゴの横に並べると、小ぶりのおいしいみかんは、貧弱に見えるからである。さらに消費者の知識が高まり、自分で食べるのは、小さく安い方がおいしいということも理解されてきた。こうして、12月中旬まで贈答用の大きなみかんを出し、小さいやつは後でまとめて年末年始に出荷していた近年のパターンが、この年から崩れていた。また、スーパーが農家や共同選果場と直接契約するなど、市場を通さない流通が増え、東京の青果市場の会社の統廃合も進んでいた。
午後、例の麻酔科の先生がやって来た。私は、今朝から麻酔が切れてつらいことを訴えた。麻酔科は別名、ペインクリニックという。痛みを和らげる治療をするところなので、きっとこの痛みを和らげてくれるに違いないと、期待は大きかった。ところが、麻酔科の先生の言い分はこうである。「あなた、それだけ動けるのは優秀な患者さんなんですよ。普通は、そこまで動けません。痛かったら、そんなに動けるはずがありません(でも、本人が痛いといっているじゃないか!)。順調に治っている“優秀な”患者に痛み止めは必要ありません」。おもわず絶句だった。私には痛いから、何もしないでじいっとしているという選択肢は無かった。一日に十数回のトイレも、自分で松葉杖で行かねばならなかった。熱があり、水をよく飲むため、頻繁にトイレに行きたくなるが、こればっかりは、看護師さんに代りに行ってきてくれと頼めない。私は、痛み止め無しでこの後の一週間を乗り切る自信がなかったため、執拗に食い下がることにした。「先生、お願いですから背中のカニューレを抜く前に、もう一度麻酔薬をいれて下さい」「一度麻酔が覚めた足に、もう一度麻酔をかけるのは危険なのでできません。」「では、カニューレはあきらめますから、せめて薬をください。痛くて生活できません」麻酔医は、なかなかうんと言わない。「痛い痛いって、手術をしたらあなた、痛いのは当たり前なんですよ!」。そんな、無麻酔の江戸時代ではあるまいし。最後は、涙目で“泣き落とし”である。「どうしても家族が急用で来れなくて、動かなくては行けないんです。お願いします。お願いします……」潤んだ目を見た麻酔医は、ようやく自尊心が満たされたらしく、満足げに「じゃあ、しかたがないわね、特別に座薬と飲み薬をあげましょう」ともったいつけて処方してくれた。そして、麻酔医は何を思ったか、私の担当看護師を呼びつけて、あてつけに叱り飛ばしたのである。数分後、血相を変えた担当看護師がやってきて言った。「これからは、何かあったら私達に頼んで下さい。無理に動かなくていいんです。いいですか。こんな事されたら困るんです。もう、絶対止めて下さいね」看護師は泣きそうであった。一生懸命看護して下さった看護師に、恩返しどころかひどい仕打ちをしてしまって、申し訳なかった。これからはますます、看護師に迷惑をかけないようにしようと心に決めた。あとで、近所の人が、自分も角谷整形外科で手術するはずが、麻酔医ともめて和医大に移ったと言うことを聞いた。いい医者に、いい看護師、食事もおいしくリハビリ設備もばっちりのいい病院なのに、どうして最近入院患者が少ないのか不思議だったが。口コミは恐ろしいでんなあ。
これは、切れたひざの靭帯を新しく作って、世間のふつうの日常生活ばかりでなく、みかん採りや山登り、はては柔道までしてしまおうというもくろみを胸に、ひたすらリハビリに励む闘病の記録である、、、

しもたま柔道&闘病日記-その28-

しもたま柔道&闘病日記-その28-
看護師がストレッチャー(寝台)を運んでいく。午前9時半、麻酔開始。手術室に運ばれ、マグロのように転がり足を広げている患者。10時半、手術開始。患者の上半身は麻酔医達にしか見えない。助手の医者が、足を持ち上げ、手術中に動かないよう固定する。彼はその後、左足の足首をつかみ続ける。すでに再建手術をするつもりで準備を済ませているスタッフは、ブラックジャックのような岩崎医師の魔術を見落とすまいと神経を集中する。岩崎医師は膝の上下左右に3ヶ所、一文字の1cmくらいのメスを入れ、内視鏡で中を覗く。靭帯と半月板の状態は?暗いトンネルを抜けると、明るい関節の中にたどり着く。ピンクの組織の中に、白い三日月型のかたまりが2つみえるが、1つは少しささくれているようだ。奥にやはりピンクの縦長のすじが二本、交差している。器具を引っかけてみる。MRIの検査どおり、靭帯は切れているのか。それとも、ゆるんでいるだけなのか。ピンク色のすじは、延びたゴムのようにたわんで、やはり靭帯は切れている。続いて、白い固まりのほうに向う。半月板だ。表面を押してみたり、ささくれをつついてみたり、弾力性やひびの割れ具合を確かめる。けずるか、それとも切り取るか。岩崎医師は手際良く調べていく。半月板は、削って縫うことにしよう。その間約15分だ。
ひび割れた半月板を再度傷つけてから、軽やかな指で器用に細い針で縫い閉じていく。まだ、手付かずのきれいな膝関節。まだ浮遊物も少なく、画面が見やすい。これは、20分ほどかかる。いよいよ、再建手術に取りかかる。筋肉の加工と骨に穴を開ける作業を同時に行う。まず、ひざ下に5cm程の切れ目が入れられる。そこからメスを使って、腱にそって筋肉ごとに剥離していく。狙いは半腱様筋(はんけんようきん)だ。いくつかの筋の束から、半腱様筋を確認する。「これは細すぎる。薄筋も両方使おう」。他の筋を傷つけないよう注意深く2本の筋肉の一部を取り出す。そのまま使うには長い。筋肉は、すぐさま折りたたまれて、短くて頑丈な2本の「靭帯」へと造り替えられていく。その間、5cmの傷のところからメスを使って、すねの骨と皮とを剥離していく。また、太ももの皮を肉ごと2ヶ所つまんで、膝の上の穴からも、大腿骨と筋肉とを剥離していく。すねの骨や大腿骨が露出すると、脛の骨に直径6mm程度のトンネルを2本、さらに大腿骨にも57mm程度のトンネルを2本開けていく。骨の粉が組織に残らないよう、慎重に取り除く。新たに加工された「靭帯」が届くと、内視鏡の穴を利用しつつ、トンネルの中にピンセットなどの器具で巧みに誘導し、大腿骨の表面の出口で、それぞれチタンのボルトで固定する。2本の筋は、まるで本物の前十字靭帯のように、2本の上部がYの字を描くように分かれてひざの中を走る。
そして一番重要な作業がやってきた。新しい靭帯の牽引だ。この筋の引っ張り具合が、手術の成功を決めるといっても過言ではない。引っ張りすぎると、ひざは曲がらない。あまりゆるいと、靭帯をつけていないのと同じになる。微妙なさじ加減は、芸術といってもよい。センスを要する手術なのだ。岩崎医師は、患者の膝の角度を0度に伸ばし、新しい靭帯のテンションを決めて固定する。脛の骨のトンネルの入り口に、チタンテープが張られ、靭帯は両端とも完全に固定される。靭帯の付き具合を内視鏡で確認し、4つの入り口を順々に縫い閉じて終了。時刻は12時半。約3時間の手術はこうして無事に終わる。

私は、ストレッチャーの揺れを感じながら、まるで朝が来たように浅い眠りから目覚めようとしていた。薄っすらと目を開けると、長い天井のあいだに建物の継ぎ目が見えた。なんだか、外に出たように涼しかった。やがてエレベーターに入っていったようだった。エレベーターが降りていく。チンとエレベーターがなると、そこは見覚えのある1階のレントゲン室だった。手術は終わったんだ。なんてあっけないんだろう。撮影が終わると、ストレッチャーは再びエレベーターへと運ばれ、5階の懐かしい病室へとついた。また、うとうとと眠気が襲ってきた。
次に目覚めたときは、医師の術後説明だった。夢うつつの中、手術はうまくいったこと、半月板は取らずに縫ったことをおぼろげに聞いた。また、眠りに落ちて目覚めると今度は、看護師がやってきた。「足は動かせますか?」と聞くので、試してみる。膝は動かないが、足の指がきゅっきゅっと簡単に動いた。成功が目にみえて嬉しい。ただ、高枕に固定されていた首と肩は、なぜか事故のむち打ちのように傷み、全身が何かに縛られているようにあまり動かせない。その時は知らなかったが、点滴の針に心電図、尿のカニューレに下半身麻酔のチューブ、膝のドレーンを溜める袋まで、体のあちこちにいくつもの管があって、動ける状態ではなかった。 背中の麻酔のチューブは、麻酔薬の入った注射器型の筒につながっていた。2~3日くらいかけて少しずつしみ出して、足にだけ効いてくれるそうだ。まだ、麻酔が効いているらしく、少し起きるとまた熟睡してしまう。夕方水をのみ、お腹が動いているのを看護師が確認する。食事の許可が出た。6時に夕食がやってきた。サバの煮付だ。今日初めての食事。うれしくて、1合のご飯共々きれいに平らげた。
 義妹らは一緒にお昼にタイ料理屋で食べて来たという。この、タイ料理屋はタイの地震と津波のあと、閉店してしまい、ついに退院後に食べにいけなかった。いいなあ。早く良くなって、病院を抜け出して食べに行きたいなあ。それも生ビール片手がいいなあ。手術直後というのに、もう、食べ物と酒のことを考えてしまっている、食い意地の張った私だった。そして有限会社の義兄が泊ってくれ、夜中まで熟睡したのだった。手術の成功と裏腹に、これからが本当の不自由な闘病生活の始まりだったことは、知る由もなかった。