2011年5月23日月曜日

しもたま柔道&闘病日記-その29-

しもたま柔道&闘病日記-その29-
手術した日の夜のことだ。喉の渇きは、限界だったが、水入れに手が届かない。3回くらいは、目が覚めたと思う。我慢できずに、そばにあったものを手にとり、簡易ベットで熟睡中の義兄をつついて起こした。突然起こされて、驚いていたようだが、ようやく水入れを手にとって、飲ませてくれた。水ひとつ自分で飲めないなんて! 手術前には1人で平気といっていたのに、もう、弱音を吐いていると思うと、情けなかった。義兄に入れてもらったコーヒーを飲みながら、朝食のパンを食べた。これからは、コーヒーが欲しければ自分で入れなくてはならない。いれてもらう最後のコーヒーだ。やがて義兄は帰っていた。「また、3日後に来るから」と言い残して。簡易ベットではあまり寝られなかっただろうに、これから一日、激しい果樹の収穫作業が待っている。さぞ、眠いくてつらいだろう。
術後一日目。朝から、見知らぬ男性が尋ねて来た。花屋さんだった。花瓶がないからどうしようと思っていたら、きれいな花かごでテレビの上にちょこんと乗せられる様になっていた。送り主は、山の会の古くからの友人、浅井さんと玉置さんだった。花は、何日も私や病室の人の目を楽しませてくれた。一日目はまだ体力があり、麻酔の効果も手伝って比較的元気だった。思ったほどうずかない。内視鏡を使って手術したため、傷口が小さい。ガーゼ交換のときに中を見たら、1cmほどの3つの「十字」が点在していて、一番大きな傷は、5cmほど。よくあるマンガの「傷」のような、線路のマークのような++++の形をしていた。左脚は足首から太ももまで、サポーターが巻かれている。30度くらい曲げた3本の芯が入った、とてもシンプルなものだ。完全に固定すると筋肉が落ち、関節が固まってしまい、その後のリハビリが遅れるため、この十数年でサポーターを使うように変わってきたらしい。足を浮かせながら松葉杖をつき、コーヒーを入れたりゴミを出したりしていたお陰で、筋肉が落ちず、リハビリは早かった。(静のリハビリ。関節を動かさず、筋肉を意識して力を入れて数秒固定するだけでも、筋力の極端な低下を防ぐことが出来る)。
もちろん、ベッドの上では動かずにおとなしく上を向いていた。チューブなどのせいで左右に寝返りが打てないため、いつも上向きに寝ていたのだ。だんだんと体重のかかる踵を中心に、体が痛くなっていった。床ずれである。同じ姿勢でいると体が痛い。水を飲むために上げっぱなしだったベッドを倒してもらった。
手術二日後の朝が来た。昨日とうってかわって、身体がだるい。動くと足に激痛が走った。ついに、麻酔が切れたのだ。起きれずにうだうだと朝寝坊していると、看護師さんが来て、髪を洗ってくれた。うれしい!寝汗で髪はべたついていた。でも今日は、前かがみで髪を洗うのは、足がうずいてつらかった。持ってきたパジャマも失敗だった。きつすぎて、サポーターの脱着や傷の手当てができない。結局、四六時ジャージを履くことになってしまった。「短パンを持ってきたら」と、看護師さんが教えてくれた。義兄に、すぐに短パンを持ってきてくれるよう電話すると、来れないという。急に在庫の温州みかん(早生)を全部出荷するよう電話があり、家族と親戚で箱詰めに追われているのだ。「一週間後の23日に行くから」と聞き、着替えが間に合うのか、とても心細くなった。
このころ、平成9年より始まった不景気により、関東で高級果実の贈答用が動かなくなり、「安価な家庭消費用を、正月に食べるため、年末までに買いたい」という需要が増えていた。これまでのように、関東在住の息子らが、東北や北海道の両親や知り合いに、和歌山のおいしいみかんを歳暮に送るというパターンが、高度成長期に東北から出稼ぎに来た世代に続いてきたが、退職や経済的理由により、「歳暮」そのものを贈る人が減り、さらに、東北や北海道でも安価に愛媛や和歌山のやわらかくおいしいみかんが、スーパーやインターネット等で簡単に手に入るようになって、東京のデパートでの購入量が減っていた。かつて東京では、おいしさよりも、大きく見栄えの良いみかんが人気であった。というのも、仏壇の前で、大きなリンゴの横に並べると、小ぶりのおいしいみかんは、貧弱に見えるからである。さらに消費者の知識が高まり、自分で食べるのは、小さく安い方がおいしいということも理解されてきた。こうして、12月中旬まで贈答用の大きなみかんを出し、小さいやつは後でまとめて年末年始に出荷していた近年のパターンが、この年から崩れていた。また、スーパーが農家や共同選果場と直接契約するなど、市場を通さない流通が増え、東京の青果市場の会社の統廃合も進んでいた。
午後、例の麻酔科の先生がやって来た。私は、今朝から麻酔が切れてつらいことを訴えた。麻酔科は別名、ペインクリニックという。痛みを和らげる治療をするところなので、きっとこの痛みを和らげてくれるに違いないと、期待は大きかった。ところが、麻酔科の先生の言い分はこうである。「あなた、それだけ動けるのは優秀な患者さんなんですよ。普通は、そこまで動けません。痛かったら、そんなに動けるはずがありません(でも、本人が痛いといっているじゃないか!)。順調に治っている“優秀な”患者に痛み止めは必要ありません」。おもわず絶句だった。私には痛いから、何もしないでじいっとしているという選択肢は無かった。一日に十数回のトイレも、自分で松葉杖で行かねばならなかった。熱があり、水をよく飲むため、頻繁にトイレに行きたくなるが、こればっかりは、看護師さんに代りに行ってきてくれと頼めない。私は、痛み止め無しでこの後の一週間を乗り切る自信がなかったため、執拗に食い下がることにした。「先生、お願いですから背中のカニューレを抜く前に、もう一度麻酔薬をいれて下さい」「一度麻酔が覚めた足に、もう一度麻酔をかけるのは危険なのでできません。」「では、カニューレはあきらめますから、せめて薬をください。痛くて生活できません」麻酔医は、なかなかうんと言わない。「痛い痛いって、手術をしたらあなた、痛いのは当たり前なんですよ!」。そんな、無麻酔の江戸時代ではあるまいし。最後は、涙目で“泣き落とし”である。「どうしても家族が急用で来れなくて、動かなくては行けないんです。お願いします。お願いします……」潤んだ目を見た麻酔医は、ようやく自尊心が満たされたらしく、満足げに「じゃあ、しかたがないわね、特別に座薬と飲み薬をあげましょう」ともったいつけて処方してくれた。そして、麻酔医は何を思ったか、私の担当看護師を呼びつけて、あてつけに叱り飛ばしたのである。数分後、血相を変えた担当看護師がやってきて言った。「これからは、何かあったら私達に頼んで下さい。無理に動かなくていいんです。いいですか。こんな事されたら困るんです。もう、絶対止めて下さいね」看護師は泣きそうであった。一生懸命看護して下さった看護師に、恩返しどころかひどい仕打ちをしてしまって、申し訳なかった。これからはますます、看護師に迷惑をかけないようにしようと心に決めた。あとで、近所の人が、自分も角谷整形外科で手術するはずが、麻酔医ともめて和医大に移ったと言うことを聞いた。いい医者に、いい看護師、食事もおいしくリハビリ設備もばっちりのいい病院なのに、どうして最近入院患者が少ないのか不思議だったが。口コミは恐ろしいでんなあ。
これは、切れたひざの靭帯を新しく作って、世間のふつうの日常生活ばかりでなく、みかん採りや山登り、はては柔道までしてしまおうというもくろみを胸に、ひたすらリハビリに励む闘病の記録である、、、

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