2011年5月23日月曜日

しもたま柔道&闘病日記-その27ー

しもたま柔道&闘病日記-その27ー

私の手術日は、20041215日にきまった。343ヶ月のことである。場所は和歌山市の角谷整形外科、担当は名医岩崎先生だ。角谷に診察に行く前から、靭帯再建手術(じんたいさいけんしゅじゅつ)を受けたばかりの友人に、手術とリハビリについての詳しい話を聞いていた。有名なバレエの男性舞踊家やフィギアスケーターがこの手術を行って、プロにきちんと復帰していることで有名だ。“再建”手術というのは、切れた腱(けん)を縫い合わす修復手術ではない。人工の靭帯や体のほかの靭帯を移植してきて、再び一から作り直す手術だ。どちらかといえば、シリコンをいれて豊胸手術するような、美容形成に近い。長年の勘がものをいう。美しい胸になるかどうかは、医者のセンスと技量によるように、術後の足の使い勝手は、執刀医次第という訳である。
友人らによると、手術は34時間の全身麻酔(長~い!)。手術の後23日はひどくうずく(座薬もらおう!)。最低2週間は入院(しめしめ、学校の冬休みが使えるわい!)。そして、スポーツの復帰には約1年もかかるという事であった。果樹、有限会社の正社員、菰池にとって、気がかりは1年後のみかん仕事。この12月に手術すると、次の12月も下手すればみかん作業ができないかもしれない。しかし、解決策がないわけではない。あらかじめ手術前に筋肉をめいっぱい増やしておくと、術後の筋力の回復が早いらしい。これは張り切ってリハビリを頑張るべし。
手術日が決まってから、角谷にリハビリにせっせと通うことにした。私の場合、左の太ももの裏から、筋肉を取ってきて、左膝に移植することになっている。その筋肉がやせてて使い物にならなかったら、切ってみてやっぱり中止というあほらしいことになるらしい。筋肉を増やすため、様々なトレーニングマシーンを使うことになった。そこはただで転ばないしもたまである。ついでに、柔道に必要な筋肉のトレーニングを受ける許可をもらい、足ばかりではなく、せっせと腕や肩や腹筋を鍛えることにした。1年後の収穫作業のためにも、上半身の筋トレが必要なのだ(みかんの収穫作業は、10kgの籠を長時間首からかけて、山の斜面に立つため、腹筋背筋ばかりでなくバランスを取るための腕力も必要である)。私にとって、手術とリハビリは、柔道の試合とそのトレーニングに重なる。絶対にやり遂げてやるぞ!というイメージトレーニングが大切なのである。その点、やる気は満々で絶好調であった。
いよいよ手術の日が迫ってきた。口では悠長なことを行っていた私も、さすがにプレッシャーで、弱気になっていった。生きて帰れるかしらん。もしものときのために、心の準備をしておこう。真剣にそう思った。1週間前に麻酔科の診察と検査があった。もともと枕が苦手で、高い枕をしていると気管や血管が締まり、寝てて息苦しくなる私は、麻酔がかかっているときの枕の高さが気になって、麻酔医に質問した。「ところで、麻酔中はどんな枕ですか?」。なんてあほうな質問!と、あきれているのがありありとわかった。「普通よりは高めの枕だと思います」「高い枕だと、息ができなくなるんで、低いものに替えてもらえませんか」「それはできません」。私は、ひざの手術は成功しても、息ができなくて死んじゃったよ、ざんね~ん!!はごめんだった。元もこもないではないか。さらに、手術中の説明に話が移った。「麻酔方法は、マスクでガスを吸う方法と、気管にチューブを入れる方法とがありますが、どうしましょう?」。どっちがいいか、と尋ねられたと思った。あわてて考えた。チューブのほうが息が楽かな?「では、チューブのほうでお願いします」。
突然、空に黒雲がわき、雷とともに嵐がやってきたかのようだった。ほんとうに私には青天のへきれきだった。麻酔医はいきなり眉をつり上げたかと思うと、すさまじい勢いで私に捲くし立て始めた。「あなたは、チューブをいれる苦しさが分からないからそんな事を言うんです!チューブを入れなくても喉の痛みを訴える患者さんが多いのに、チューブを入れたら、しばらく声も出にくく大変なんですよ!後々文句を言うに決まっています!あなたはねぇ!……」般若の面をかぶったような形相の麻酔医は、延々と数分にわたって私にチューブ挿入の大変さを並べ、是が非でもマスクに考えを改めさせようと説得にかかっていた。
私は、突然の豹変に頭がついていけず、ぽかんと口を開けて説明を聞くばかりであった。私は何か、言ってはならないことを言ったのだろうか。それとも私の言い方が失礼だったのだろうか。どうやら知らずに“地雷”を踏んだらしいということだけは、おぼろげにわかった。「では、手術までによく考えておきなさいね!」と結んで、ようやく麻酔医が私を解放してくれた。私はこの“きれる”医者に麻酔されるのかと思うと、手術前でそれでなくても不安な気分が、更に滅入りそうだった。それでも、担当医ポアロ氏がお気に入りなので、なんとか耐える事ができた。

ついに、入院の日が来た。12月はみかんの収穫、運搬、箱詰め作業が加わり、いつにも増して仕事がきつかった。筋トレのために週23回、中学校の仕事帰りに病院通いをしていたこともあり、和歌山に働きに行く日は、朝5時半に起床、帰宅は10時半をまわっていた。睡眠時間はいつも5時間を切り、入院直前の私はぼろ雑巾のように疲れきっていた。同じ有限会社の社員達も、この4週間、1日も休むことなく、体を壊すほど超長時間の肉体労働に耐えていた。入院前日に、仕事帰りに車で病院に寄り、荷物のおおかたを運んでおいた。そして入院当日14日。重い荷物を担ぎながらJRで有田から和歌山駅まで行き、そこから徒歩10分かけて病院に行き、ひとり入院した。「付き添いの方ですか?」と聞かれた。看護師にはおおきな荷物を背負う私が、明日手術を受ける怪我人には見えなかった。入院中、トレーニングのために、寝巻きにスリッパではなく、サッカーのジャージに白の運動靴で過ごした。これも、早期回復によかったが、悪い足に脱いだり履かせるのに、膝をひねることにつながり、また、加重が負担だったかもしれない。また、生物の勉強をするため、「ウォーレスの生物学上下」を持参し、ノート6冊にまとめ直した。そして、息抜きに、「バイオハザード」と「ファイナルファンタジー」とプレイステーションを持って行き、消灯までの時間つぶしにしていた。そのソフトには、ジムを経営する女性(あねさん)と義弟が2人いて、そのあねさんというのが実はニューハーフであったという落ちがついていた。子ども用のソフトながら、セックスための歓楽街まであり、当時のバブル経済の華やかさが繁栄されていたのを覚えている。ゲーム類はちなみに、弟、剛史の差し入れである。
手術前日のメニューは、こんな感じである。まず、10時ごろ部屋に案内され、荷物を整理するまもなく、抗生物質のテストをしたり、毛をそったりつめを切ったり検温したりした。30分の軽い筋トレの後、すぐに昼食をよばれた。さんま定食だった。結構量があり、味もしっかりしていておいしい。ここの病院にしてよかったと思う瞬間だ。1時ごろに担当医師、岩崎先生とのミィーティング。手術の大まかな流れを確認する。夕方、例の麻酔医とのミーティングがあった。「アレルギー喘息の人は、気管挿入しない方がいいのです」と、最初から説得の気配なので、今更話し合うのも面倒くさくなり、麻酔方法の件は、医師にすべて任せることにした。初めから、「すべてお任せします」といえば、医師の機嫌も良かったのだろうが、それは後の祭り。あとは、窒息したとき気付いてくれることを祈るのみである。きっと、いろいろな測定機械があるから、そんな初歩的なミスは起こらないことだろう。医師とスタッフを信じるしかない。また、麻酔医には風邪を引かないよう、安静にしていましたかとも聞かれた。安静のはずがないのだ。無理な仕事で体がぼろぼろのところへ、電車やバスや学校で、ウィルスだらけの人込みにもまれているのだから、いつ風邪をひいてもおかしくない。だが、気が張っているのか、今の所たいした不調はなかった。“恐怖の問診”は、こうしてクリアできた。この麻酔医は、手術前ばかりではなく、術後もいろいろ笑わせてくれる(今だから笑える)発言をするのだが、それはまた、次の日記にて。
5時ごろにシャワーを浴びさせてもらい、つづいて麻酔科の看護師の説明も受けた。看護師らは親切で明るい人達ばかりなので安心だ。同じ部屋の人達も気さくでいい感じだった。医師も看護師も周りの患者も、これ以上恵まれた病院はないだろう。
夕食の卵焼きや煮物を食べてから、絶食に入った。明け方からは水も飲めない。いよいよ明日だ。興奮はしていたが、疲れているせいか、なれないベッドでもぐっすり眠れた。
深い眠りから目覚めたら、手術の朝だった。朝早くから、看護師さんが入れかわり立ちかわり来ては、検温や点滴などをしていくので忙しかった。お腹が空いたとか、手術は恐いとか、余計なことを考える暇を与えてくれないのだ。なんだか、病棟全体がぴりぴりとしているのが感じられた。そんなに大きな手術だったのかしらん。そう言えば、骨折をつなぐよりも、膝の半月板を削るよりも、医者の腕が問われる繊細な手術であった。知らないというのは恐ろしいものだ。手術着に着換えていると、義妹が子どもと一緒に来たので、あわてて手術の承諾書にサインしてもらう。いよいよ分きざみの作業になってきた。点滴の針がなかなか入らず、先にストレッチャー(寝台)に移って筋肉注射をする。義妹が、赤子を抱いて見守っている。子どもは大勢の見知らぬ人にも動揺せず、泣かずに私を見つめている。この子は、何を思って私のことを見ているんだろう。ふと貴重品のかばんのことを思い出し、義妹に手渡した瞬間、私の記憶はとぎれ、意識は深い暗い淵の中をさまよっていった。
手術の模様は、次号にて。

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