2011年5月28日土曜日

しもたま柔道&闘病日記その38

そうこうしているうちに、ドーンさんの帰国日がせまってきた。東北地方にいる彼氏と、数週間遊んでいた彼女は、いっしょに岩登りに行って滑落し、運悪く足を捻挫してしまった(下の沢まで落ちたらしいから、それくらいですんでよかったというべきか)。私と同じ左膝を捻挫した!同じように大人になって柔道を始め、同じように黒帯びをとり、同じように直後に左膝を負傷するなど、本当にドーンさんは人まねが好きだ。そんな所までまねなくてもよかったのに。滝川先生ご夫妻が、私と義兄をドーンさんとのお別れ食事会に誘って下さった。私たちは道場でいっしょに記念写真を撮り、ドーンとの再会を誓い会った。余りに、名残が惜しく、私と義兄は、ドーンさんの見送りに、関空まで出かけた。まだ、帰国がピンと来ない。たった2年間だったが、家族の1人のような気がしていた。ドーンさんのいない職場や柔道場なんて、考えられなかった。滝川先生も、孫が外国に行くようで、さぞ、寂しい思いをされていることだろう。
滝川道場では、小学生がますます強くなり、ついに道場の6年生の女子が、45kg級と45kg超級とで、それぞれ優勝と準優勝を果たすまでになった。優勝した子は晴れて全国大会出場、というわけで、先生ご夫妻と、我々は、滝川の小学生初の全国大会を応援すべく、秋田へ赴いた。試合結果は初戦を白星で飾り、2試合目は前回の優勝者の東京代表とあたる不運で、惜しくも敗退した。他の選手が3秒以内に投げられる中、彼女は2分近くも粘り強く闘った上での負けだった。先生も私たちも、自分の試合のように緊張し、自分の試合のように落ち込んだ。秋田旅行はとても楽しい思い出になった。滝川先生のほうは、昔、秋田国体の時に来て以来で、青春時代の思い出に浸っておられた。「昔泊まった、男鹿半島の旅館は今でもあるやろうか、、、」とおっしゃって、試合後に観光にでかけられた。われわれは、田沢湖に泊まったあと、名物「稲庭うどん」の体験をしに行った。工場の責任者と意気投合し、うどんとみかんを物々交換する約束をしてきた。東京の人は大きいみかんが好きで、東北へは大きくて大味のみかんを送る。しかし、秋田の人は関西人に負けず味にうるさい。うどんが関西風の薄味でだしがきいていることからもわかる。みかんは、愛媛から小さい甘いものを取り寄せているという。ぜひともこれは、おいしい有田みかんを食べてもらって、愛媛との味の違いを知ってもらわなくては。そして、こちらはみかんでうどんを釣るのである。今年の冬が楽しみだ(その後、12月にうどんを送ってくださいました。ごちそうさまでした)
秋田から帰ると、微熱が続き、結局たいしてリハビリができなかった。しかし、トレーナーの西林さんは、熱が続いてもトレーニングを少しずつしていたことを評価してくれた。うれしい!やる気が出る!「受験(試合)」に向けた本物の「家庭教師(トレーナー)」を得たのだ。こうして、バレエとともに「スポーツリハビリ」という新しいトレーニングが始まった。

病院では、自転車こぎやジョギングのトレーニングで、筋力をつけて、走れるようになったら日常復帰といわれる。しかし、それでは3輪車に乗れる幼児と大差が無い。前回、日常とスポーツの間に広がる険しい崖の話しをしたが、患者が「3才児の運動能力」、スポーツ選手は「大人の運動能力」といったくらいの違いだろうか。ジグザグに切り返してラケットでボールを打ち返したり、ジャンプしてアタックやシュートをしたりというのは、もっと高度なバランス感覚と筋力を要する。
西林さんのリハビリは月に2回のペースで続いた。これまでの私は、10年前にスキーで傷めた右膝をかばって過ごしてきた。というわけで、スポーツリハビリでは悪い左足ばかりではなく右側も筋肉をつけたり、染み付いた悪い癖をとったりが必要で、他の患者さんより何倍も苦労があった。まず最初にジャンプのトレーニング。筋肉の使い方を思い出しジャンプが安定してくると、ジャンプしながらターンする練習にかわり、「①深い屈伸のままの移動」や、「②筋トレ2種類」と「③片足立ちのバランス」が加わった。その後、「④すばやい両足のターン」を増やすと案の定、元気な右足のほうが先に筋肉痛になってしまった。
スポーツでは、バレーボールのレシーブにしろ、柔道の背負い投げにしろ、しゃがんで重心移動するのは重要な動きだ。足を踏み出すたびに重心が左右に揺れるのを防ぐには、骨盤付近の筋力が必要である。メニューの強度など、全ては科学的に計算されている。とても、自分の頭ではここまでメニューを考えられない。きっと、知らずに手を抜いてたり、あるいは負荷が強すぎたりして、挫折してしまう。トレーナーの存在をとてもありがたく感じた。
10月も入ってくると、足の傷そのものが安定してきたような気がした。安全にスポーツするには切ってから910ヶ月かかるというのはやはり本当だった。捻ったり転んだりする可能性が減った。喩え転んでも安定しているため、以前のように関節がずれて傷まないと思う。バレエも農作業も、不安なくこなせるようになってきた。この感じでは、11月~12月の収穫作業に間に合いそうだ。2月から感じていた焦りと胸のつっかえがとれた気がした。
11月、いよいよ、1年で最も忙しい温州みかんの収穫時期が始まる。初めは1日中、収穫ばかりを繰り返す。和歌山県の有田地方は平野が少なく、したがって我が有限会社の農地は斜面の傾斜がきつい。場所によっては30度くらいあって、そこで10kgになる収穫用のの籠を肩からぶら下げ、歩き回り、木にも登ったりする。そして、20kg入るプラスチックのみかん「コンテナ」という入れ物に移し変えて、その20kgを両手で抱えて、モノレールまで歩いて運ぶ。それを何十箱も、トラックに積み込む。特別なことはしなくても、筋トレになる。いや、この日のために、1年かけて筋トレをしてきたといっても過言ではない。いきなりみかんコンテナを運んで腰を痛めないために、日ごろから柔道しているのだ。やがて、半日収穫しながら、早朝から深夜まで箱詰め作業をするようになる。近所の家には、早朝4時ごろから夜12時すぎまで20時間以上働くところもあるが、有限会社末広はせいぜい1415時間程度だ。シーズンが始まりだすと、日曜日も祭日もなく、延々と50日間ほど無休で働く。今年は、年末に極端に寒かったせいもあるが、みかんが終わったとたんに葬式が毎日いくつもいくつも集落で続いた。なかには、年端のいかない乳児もいて、葬儀が痛々しかった。病院に行くのを我慢して、過労やガンで倒れる人の数は知れない。
2004年の10月に手術前に筋トレを始めてから、約1年たった。早いもので、柔道を始めて4年、35歳になった。長かった2005年が終わった。脚はみかん作業で鍛えられ、見違えるように筋肉がついた。正月早々、カナダ人のドーンさんに会いに行くことになった。カナダではない。タイだ。彼女は、ボランティアで英語を教えに、タイの田舎町に住んでいた。その昔、旧日本軍がビルマ攻略のためにひいた泰緬鉄道沿いで、すぐ近くにミャンマー(旧ビルマ)国境があった。彼女は外国人の少ない田舎で、マラリアの危険も顧みず、冬でも40℃近い猛暑の中、がんばっていた。誘われて、小学校の授業を見学した。子供たちの約半数が、孤児院の子供。どの子も制服のこざっぱりとした赤いポロシャツを着ている。古着っぽく見えない。全員の教科書もなく、教材はほとんどが手作りだった。小学生なのに60分授業。さすがに、1年生は落ち着かなくて、トイレにいきたい、水が飲みたいという(英語で!)。しかし、高学年は英語を身につけようと、真剣に授業を受けていた。日本の小学校では近年見られない、子供たちの生き生きとした光景が新鮮だった。日本では中高生でも、こんなに集中して60分授業を受けられるだろうか。放課後、柔道クラブがあるというので、早速参加してきた。2年ぶりの乱取り(練習試合)。思うように足が出ない。すぐに息があがった。しかし、体が覚えてくれていて、黒帯の面子を保つことはできた。
これに自信をつけて、帰国してすぐにバレエだけ出なく、柔道にも復帰した。初めはうちこみ、そして白帯と乱取り練習を始めた。さらに、いっしょにマスターズを目指していた3段の人が、足運びの練習を買って出てくださり、組みながら前後左右に動き回った。すると、左足の動きが鈍いことが目に見えてわかった。何度も書いたように、傷が治り筋肉がついても、スポーツするためには別のトレーニングメニューがいる。みかん作業にない動きを補充すべきだ。苦手の左ステップ練習は、道場で自分で工夫して行うことにした。
2006125日、久しぶりに住みや整形外科に行き、旧姓西林さんの訓練を受けた。30秒間で腹筋を33回出来たとき、「もう、スポーツリハビリは終了です」と言われた。34回がアスリートレベルなんだそうだ。うれしくもあり、さみしくもあった。果たして手術して正解だったか?私にとっては、やってよかった。私はラッキーだった。同じ頃手術をした他の人は、いまだに違和感を抱えていたり、日常さえ復帰できないでいる人もいる。そんなわけで、だれにもかれにも手術を勧めようとは思わない。でも、きちんとした医師とスタッフがそろった病院で切り、気心の知れた理学療法士や整骨院でリハビリを行えるなら、チャレンジする価値はあると思う。そして、私は復活した。マニアックな文章につきあって下さった読者の皆さん、ありがとうございました。    

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