2011年5月23日月曜日

しもたま柔道&闘病日記ーその31-

しもたま柔道&闘病日記ーその31-

私が柔道復帰するには、正しいトレーニングで地道にやるしかない。2004年1月2日に怪我をしてからの1年間、あまり運動をしなかったので、大腿部の周囲が10cm近く細くなっている。そして、これからしばらく歩かないから、さらに細くなるという。究極のボディビル、肉体改造がこれから始まろうとしている。
最初のリハビリは、自動マシーン(CPM)で膝関節を動かすものだった。これは、新しい靭帯に負担をかけないように、徐々に膝の可動域を広げていくストレッチのようなものだ。術後1週間目から行った。医師によると、毎日15度ずつあげて行って、120度まで曲がれば退院できるという。理学療法士Q氏が寝る前に来てセットしに来た。寝返りで誤作動しないようにと、私が数値をいじれないようにして帰って行った。翌朝のリハビリでQ氏は尋ねた。「1日何時間くらいCPMを使いましたか?」そのとき、寝る前と起き抜けの1時間ずつトレーニングしていたので答えた。「2時間くらいです」「ええ!一日たったの2時間?」私は、Q氏の言葉からCPMは長時間するものだと解釈した。1月から仕事に復帰するつもりだったので、3~4週間で退院するべく、せっせと食前食後に機械を活用した。ところが、Q氏は忙しいのか、病室に全く現れなかった。他の患者もQ氏の態度を不審がって、「あんたがリハビリをサボるから病室に来ないんじゃないのか?」「もっとマジメにCPMやりなさい」と言い始めたからたまらない。24時間暇な“ご隠居達”の監視のもと、私は毎日十数時間もCPMをさせられるはめになった。あとで、やり過ぎと、こっぴどく叱られるまで、、、

手術して10日経った。足は順調に治っていた。理学療法士Qの指示で足を持ち上げ、3秒間保持するトレーニングが始まっていた。家族が来るまでは、ジャージや下着の洗濯をしたり近くのスーパーに買い出し(自分のコーヒーや牛乳ばかりでなく、見舞い客用の飲み物など)に出かけたり忙しかった。2004年もあと1週間となり、有限会社の収穫作業も一段落。ようやく生野の実家の親や義兄らも、ちょくちょく来てくれるようになった。忙しいことをわかっていて12月に手術したのだから、しかたのないことだ。松葉杖の日常生活のお陰で、上半身や右足の筋肉が、手術前よりも増加していた。しかし、関節を伸ばしたまま固定された左ひざ関節は、日ごとに固くなっていった。本当にあと2週間ほどで退院できるのか?なんだか、雲行きが怪しくなってきた。
この日、岩崎医師の診察があった。「CPM(ひざの可動域を広げる機械)は、何度まで進みましたか?」「まだ、30度のままです」「毎日1015度あげるように言ったでしょう!」普段は温厚な医師が、この時は顔をこわばらせた。「私が動かせないように、理学療法士が装置をロックしているんです!」「看護婦に言いますから、あとで上げてもらいなさい」。私は、順調な回復を誉めてもらえると思っていただけに、衝撃を受けた。看護師さんは、機械のロックを解除すると、自分で角度を変える方法を丁寧に教えてくれた。その日のリハビリでQ氏に、「岩崎先生の指示でCPMを45度に変えました。」と告げた。「あっごめん!忘れてたわ~」とにやにや。Q氏は忙しくて病室をまわるのを忘れていたというのだ。あまりにあっけらかんとしていて、ラテン的なQ氏らしかった。「なかなか角度を変えに来てくれないので一生懸命、一日十時間以上していたんですよ」と、ちょっといやみっぽくいうと、Q氏は「そんなに長時間していたんか!なんて無茶な!」と絶句した。12時間の時は短くて、十時間以上は長いということは、本当はどれくらいやればいいんだろう。病室に帰った私は、他の患者の前で看護師さんにCPMのやり方を尋ねた。というのも、同じ部屋の患者は、やればやるほどいいと思っていたので、誤解をみんなの前で解くほうがいいと思ったからだ。看護師は言った。「長時間しても効果はありません。短い時間で、一日に何度もやるのが効果的ですよ。最初は弱く、だんだん強くなっていくでしょう。いきなりやると関節に負担がかかるからです」。私はこの言葉でCPMの意義を知った。CPMはストレッチ体操なのだ!と。看護師はいつも指示が簡潔で適確だった。
もう1人、私には心強い味方がいた。スポーツトレーナーの西林さんである。彼女は頭の回転が速く、説明が具体的で分かりやすかった。例えば、「歩くためにどんな筋トレが必要か」という質問に対し、「その前に、忘れてしまった歩き方を思い出すこと(イメージトレーニング)から始めましょう」と、リハビリの初歩から、順序立てて教えてくれた。人は、1週間も寝たきりだと、歩くための筋肉の使い方を忘れてしまう。力を入れているつもりで、大腿部に力が入っていない。具体的に目で見てわかるように説明してくれた。後に、スポーツ復帰に際しても、神経の感覚を取り戻すこと、筋肉のバランスが大切であることを教えてくれた。日常のリハビリが終わったあとも、スポーツリハビリを根気よく続けてくれた。彼女のお陰で、なぜ足裏を空中に持ち上げたままトレーニングすると危険か(脚のどこかを床につけたままが良い。不安定な要素が増えると、靭帯に負担がかかる)、大腿部の伸筋と屈筋の両方を使ってトレーニングすべき理由(屈筋が縮む事で、靭帯が伸びるのを防いでくれる)といった事が、科学的に理解できた(左大腿部のハムストの屈筋を、トレーニングにより一生涯維持しておかないと、再建した靭帯に直接負荷がかかってしまい、もう一度靭帯断裂につながり、危険である。なぜなら、2回目の手術は、右のハムストから筋肉を取らねばならない。つまり、両足の手術のために車椅子に何ヶ月も乗ることなり、つまり、リハビリを失敗すると最悪、二度と歩けなくなる)。そして、長期的視野で持って、今行っているリハビリの自分の位置を把握させてくれた。彼女のお陰で、何人もの患者が、スムーズに日常復帰、スポーツ復帰していったことだろう。もっと、給与や待遇が、評価改善されるべき人だ。
病院で今年のクリスマスと正月を過ごすことになった私は、正直、あまり期待していなかった。ところが、角谷整形外科の病院食は“素晴らしすぎる”のである。もともと、どんぶりいっぱいのご飯に、こってりしたおかず。とても病人食とは思えない、「整形ならでは」の食事だ。(脂肪と炭水化物がやたら多くて、肉体労働者向きである)。それが、さらにパワーアップ。1224日のクリスマスイブの昼食は、鶏のもも焼きとショートケーキが出たから驚きだ。31日の年越しそばに、かきの炊き込み御飯、正月3日間は餅が二個も入ったお雑煮に日替わりおせち料理。なにもしないと、ぶくぶくと太ってしまう。「食べた分、しっかりリハビリしなさいということか」と、カロリーを消費すべく、一日2回せっせとアスレチックジム通いに勤しみ、病棟ではバレエの基本練習のように足を持ち上げて保持したり、ストレッチをしたりとリハビリに励んだ。入院前は仕事疲れでぼろぼろだった私は、退院する頃にはかなり筋肉量が増し、1ヶ月禁酒したこともあり、かなり健康になって帰れた。
さて、足も曲がるようになったし、さあ退院しようと思い、正月あけに岩崎医師にその事を告げると、装具無しで仕事をしてはいけないと言われて困ってしまった。装具さえあれば、いつでも左足に荷重をかけてもよいという。私は術後が順調であり、すぐに退院できるものとばかり思っていたので、寝耳に水であった。装具屋は年末年始が休みだった。学校の授業は1月11日から始まる。つまり授業に間に合うように帰ろうと思ったら、年末までに装具を注文しておかねばならなかったというのだ。「そんな大事なこと、もっと早く言ってくれ~!」と思ったが、岩崎医師の最後の診察の頃にはまだ、足が30度のまま(例の手違いでQ氏が、私が自分でCPMの角度を調節できないことを忘れていた)固まっていたわけだから、岩崎医師もまさか、正月あけに110度も曲がっているとはよもや思わなかったに違いない。私の足はすでに110度以上曲がっていて筋力があり、いつでも杖なしで歩ける状態なのに、装具がないばかりに松葉杖をつかざるをえないジレンマ状態だった。焦る私に岩崎医師は言った。「一生のうちで今がいちばん大切な一ヶ月です。今さえ我慢したら、いくらでも働けます。退院を急がない方がいいですよ。たとえ装具をつけたとしても、最初は三分の一荷重。それから二分の一荷重、少しずつです。急には動けないことをわかってほしい」。正論である。しかし、私は非常勤講師という不安定な身分。給与の+αで中学校ともめた経緯もある。始業式直前になって、「まだ仕事できません」「いつ仕事復帰できるか皆目わかりません!」などと言えない。せめて年末に分かっていたら、代りの教師を探せるものを、このままでは同僚の先生や子ども達に迷惑をかけてしまう。自分の良心が、「無責任はよくない」と叫んでいる。医師やリハビリ師の目には、文句が多くて、扱いにくい患者にみえたことだろう。だが私は、せっかく得た仕事を辞めるつもりがなかったから、必死だった。
熱意は報われた。その日のうちに岩崎先生が言ってくれたのだろう。理学療法士のQ氏が、三分の一荷重の許可が出たことを教えてくれた。仕事を辞めずに済むかもしれない。翌日の1月7日、装具をあつらえるための計測を行った。14万円の装具は3週間かかるが11万の装具なら1月14日には届くという。迷わず安くて早い11万のを注文した。そして泣く泣く附属中学校に「1月14日は学校を休みます」と電話した。
待ちに待った1月14日、装具が届き、岩崎医師の診察があった。「寝るとき以外、装具を着けて下さい。装具を着けていれば、膝を(ハーフスクワットまで)曲げてもいいですよ。少しずつ、杖なしで練習して下さいね」と、岩崎医師。「杖なしで歩けるようになっても、人込みでは杖を持ってて下さいね。足が悪いことを分かってもらえますよ」と、看護師さんも言い添えた。そして、早速、全荷重で片杖のリハビリが始まった。始め、足の裏がふわふわとして落着かなかったが、なんと!すぐに歩けてしまった。トレーナーの西林さんがいなければ、ここまで早く回復できなかっただろう。
そして、翌1月15日に帰宅したとき、私は杖なしでも難なく歩けることを発見してしまった。歩けるのは嬉しいけど、歩いていいんだろうか?岩崎先生のお言葉、「装具をつけても最初は三分の一荷重。それから二分の一荷重、少しずつですよ、、、」がよぎる。三分の一荷重になれたのはたった7日前。昨日、全荷重で練習し始めたばかり。同じ入院患者でも、全荷重の許可が出て何週間も経っているのに、恐くて杖が離せない人を見てきた。私は無謀なのだろうか。手術前の筋肉を落さないように気をつけていたため、そんなに脚力はやせていなかった。
もう、自由に歩ける!これには、我ながらびっくりだった。だが、まだ、前にしか歩けない。人を横によけることも、退く事もできない。看護師さんの言う通り、他人に足が悪いと気付いてもらい、相手に避けてもらわねばならないのだ。学校の通勤は、特にラッシュで危険なので、杖をしばらく飾りで持ち歩くことにした。

ところで、足の悪い人は、よく、幅広のスリッパを履くのだが、年配者や筋力の落ちた人には、躓く原因だと思う。私は普段は、イボのついた健康スリッパを良くはいており、足裏に刺激を与え触感が良いが、松葉杖には向かない。これに対し、何気なく家で履いた小さなスリッパは、足幅が狭く、足の指が自然とグーにぎゅっとなった。こういった婦人物のいわゆる「突っ掛け」と呼ばれるかかとが高いやつや、フリークライミング用の一回り小さいシューズ、ダンサーの履くバレエシューズのようなやつは、術後に試しに履いてみると、少ない大腿四頭筋で、軽く動き回れることが判明した。思うに、前重心になって踏ん張れるハイヒールなどは脚が長く見える見た目の良さばかりでなく、おそらく、高いところのものをとったり、裾の長いスカートで脚裁きよく歩き回ったりするのに動きやすく、高い椅子に座るための、西洋人の知恵であろう。着物正座文化と、洋服椅子文化の共通点か。
これまで婦人物のシューズやスリッパはおしゃれだが足首に悪そうだなと勝手に思っていたが、力のあまり無い女性のためにある履き物でもあるのだと、手術して体力を失ってみて考え直した。そして、「突っ掛け」「ハイヒール」などというものを毎日履いている女性の足は、細くまっすぐに矯正されるんだろうな、と。


以降、リハビリの様子は次号に続く。 

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