2011年5月23日月曜日

しもたま柔道&闘病日記-その25ー

しもたま柔道&闘病日記-その25ー
これは、切れた膝の靭帯を新しく作って、世間の普通の日常生活ばかりでなく、農作業や山登り、果ては柔道までしてしまおうというもくろみを胸に、ひたすらリハビリに励む闘病の記録である(プロジェクトXふう、のんふぃくしょ~ん!)

膝の怪我というのは、昨年(2003年の正月)、柔道のOBと組み合って、物の1分もしないうちに起こった、例の例の、腹の立つ事故である(柔道日記―その17参照)。果樹園の収穫作業が終わり(菰池は有田の有限会社で、いわゆる冬みかんを作っている)、久しぶりの「立ち技」だった上に身体が冷え切っていたのが災いしたのか、私のいとしい靭帯は、あっけなくカーーンと切れてしまった。超むかつく!ことに、相手がしかけたのは「反則技」である。年末から心待ちにしていた、カナダ人ドーンさんとの対戦は、即おあずけ。長い冬眠から心地よく目覚める予定が、初日でふたたび冬眠に逆戻り。捻挫はとてもひどく、歩くのも座るのも痛んだ。すぐに救急車を呼ぶべきであったが、自身がM高の教員であったため、黙って、家に帰ってから診察してもらうことにした。その場にいた、とある人物が「わいが見てやる」、膝を手に取り、しゃかしゃかっと動かして診て、「う~ん、これやったら(捻挫やから)、骨も筋も大丈夫やあ~」と豪語するので、ますますその場で帰りづらくなった。救援も頼めず、膝はみるみる腫れて、その日は自力で左足でクラッチを踏み踏み、痛みに耐えながら家に帰ったのであった。
その日のうちに、救急指定病院に電話してみた。「いますぐひざを診てもらえますか?」「今から、家で待機している担当のものを呼び出します。」「レントゲンも撮ってもらえますよね?」「いえ、技師は休みなので、診察だけになります。」「じゃあ、正月あけまで我慢します」と、受話器を置いたのがよくなかった。私のひざはどんどんと腫れていき、曲げるのも厄介になっていた。
3日後に、いきつけの大きな整形外科に行くと、担当はたまたま、よそから赴任してきたばかりの見慣れぬ医者だった。「柔道で足が反対に曲がりました。骨折しているように痛いです」「では、レントゲンを撮りましょう」うれしい、やっと念願のレントゲンだ。もしかしたら、骨のどこかが欠けているかも、なんて思っていると、画像を見た医者は言った。「骨は大丈夫です。ねんざでしょうから、2週間安静にすれば治るでしょう」。膝の水を抜いてみたが、ただの茶色い液だった。ここで血液が混じっていたら、発見はもっと早かっただろうに、不幸にも受傷後3日もたっていて、出血の有無はわからないようだった。
2週間経っても膝はぷっくりとはれ、曲げることができなかった。しかも、ひざの水を抜くたびに、腫れでゆるんだひざは、ぐらぐらと不安定に揺れた。「先生、まだひざがぐらぐらします。」「それは、安静にして筋肉が落ちているせいです。筋トレをしなさい」。えっ?と思った。いつまでも良くならないひざで筋トレをするのは、しろうと目にも変だと思った。指示通りに屈伸をするたび痛みがひどくなるし、普段、足を横に踏み出すと、ひざが滑ってぬける感じがしていたのだ。失望した私は、病院から遠のいていった。
ひざのよくない私は、柔道も山登りもおあずけの毎日だった。4週間後の沢部恒例の交流山行では、比良スキー場での日帰り雪山登山。楽しく登る仲間を尻目に、山頂でかまくらを掘って気を紛らわしていた。2月に入って、小さな子どもと軽く柔道をしてみた。意外とできた。調子に乗って茶帯びとやってみたら、大きくひざが崩れ、うんうんうなるほど痛くなった。3月になっても足のぐらつきはおさまらなかった。道場で滝川先生に報告した。「治らないので、他の病院で診てもらう事にします。和歌山市の角谷整形にしようと思うのですが」「大きな病院のほうがええ。和医大にしなさい」無断で正月に柔道をしにいき、怪我をしてしまった手前、滝川先生には逆らえない。こんな経緯で、和医大でMRIをとってもらったところ、ようやく損傷部位が判明した(柔道日記その19参照)。ひざには4本の靭帯があるが、関節の中心を走る「前十字靭帯(ぜんじゅうじじんたい)ACL」が、おそらく切れているらしい。私には、画像がぼやけててよく見えないから、ホンマかいなと耳を疑うばかりである。手術するかこのまま保存するか選べるが、しばらくはサポーターで固定して様子を見ることとなった。医者は言った。「リハビリが大変だから、手術はやめておいたら?このまま無理しないで生活すれば、、、」私は心の中で叫んだ。「まだまだ、人生楽しみたい。仕事も趣味もあきらめるのは早すぎる、、、」叫びは声にならなかった。みかんの仕事は3Kで絶対に無理をする。登山も柔道もまだまだこれからだというのに。切なかった。
道場に戻り、師匠の滝川先生に報告した。「靭帯は、切れたと決まったわけやない。かりに切れてもまたくっつくこともある。様子を見ようやないか」。夏まで様子を見よう。そうだ、夏には先生のマスターズ柔道があるじゃないか。旅行が終わってから考えよう。それまで、手術について調べよう。私は、登山や柔道はほどほどにして、「足に負担のない」はずである、ウィーンの歌の「合唱」に明け暮れた。ウィーンでは、先生の70歳代の優勝を目にした(柔道日記2122)。しかし喜びもつかの間、試合後の観光、ヒトラーの山荘「タカの巣」ベルヒテスガーデンの最中に、足を滑らせてしまった。あれ?サポーターが効かない?!ユダヤ人の祟りではないかと思いたくなる、いや~な捻挫だった。捻挫はひどく、普段から足が常時ぐらつくよう(気持ち悪く滑る感覚)になってしまった。冷や汗が出る日常生活が続いた。日々悪化していく私の大事な足。このままでいいのか。1月の怪我、4月のMRIの後、そして7月の旅行の後と、約3ヶ月ごとに悪化しているのが目にみえるようだ。
不安を抱えたまま、合唱の本番も終わり、ほっとしたのもつかの間、某中学校の話が舞い込んできた。膝が悪く、収穫時の斜面での運搬もままならないから、外で稼ぐのも悪くはない。そう思って、快く引き受けた。悪い足で和歌山市まで通勤するのは、どうかと思ったが、満員電車に揺られるのもまんざら悪くはなかった。毎日色づいてきたみかん(その収穫の戦力外という現実)と向き合っているよりは、外の空気がすえるのが嬉しかった。このまま、手術しないでいけるかも。足が悪いのはまるで気のせいのようだった。10月まではそう思っていた。しかし、現実は許してくれなかった。 

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