2011年5月15日日曜日

しもたま柔道&闘病日記―その12―

しもたま柔道&闘病日記―その12
私の人生では、変な時に滑り込みセーフということが多い。これまで、学校の補欠合格や就職決定の電話がいきなりかかってきた。人生のシナリオライターがドラマの盛り上げを狙っているとしか思えない。そして柔道の初段も、例のごとく、突然の電話でやってきた。
先生宅にて、初段の申請手続きの模様。それまでの道場の入門とは別に、初段になると東京本部の講道館に入門するという形をとることになる。入門のための書類を記入するのだが、項目が多い。入門日、昇級日、生年月日(当時32歳)までは予想がついたが、本籍地から最終学歴まであり、まるで就職の履歴書のようであった! 印鑑も必要。本人確認のためだろうが、さすがは伝統武術。「入門儀式」が古風で手続きが面倒そうだ。日本で生まれ育った私でこれであるからして、外国から日本に柔道の修行に来た人であったなら、記入にさぞ苦労していることだろう。推薦文書もあって、自分の手で書く。もちろんいくつか見本があって、丸写し。私の場合は、道場の出世頭、無口控えめな公務員、4段のものだった。「性格温厚な社会人」というところで、思わず手が止まる。はて、わたしは温厚だったかな。隣をみると、いっしょに受かった中学生が、やはり思わず手を止めている。今年に入って、インフルエンザで寝込んで、あまり来れなかった彼が凍り付いたのは、「練習がとても熱心」という記述のところであった。彼が見本にしていたのは、先生のお孫さんで、特別に大会成績の良い中学生のものだったのだ。互いに目が会って、ふたりして、ふきだしそうになる。記述の一部に罪悪感を感じながら、これらに何十分もかかって記入し、いよいよ黒帯びの授与式。滝川道場では、道場始まって以来(受け取っていない人もあるものの)、通し番号の帯びが受け継がれている。私の帯びの番号は68番であった。てことは、次の子が69番? 英語でシックスティナイン!(年輩の方のために、四十八手のひとつらしい) 女子中高生だったら、ちょっとかわいそうな気もする、、、いっそ私が代ってあげればよかったかなあ。という気持ちがよぎる。
家には、もう一本黒い帯びがある。「柔道日記その1」に書いたように、柔道を習いはじめてすぐの頃、大阪の両親が「環、黒帯び買っておいたからもう買わなくていいよ」と言いながらくれたものだ。かなり上等で、太く分厚く、絹で出来ている。しめてみると、重厚で、いかにも黒帯びって感じでかっこいい。が、近所のカラオケ大会に、紅白歌合戦の衣装で出るくらい、衣装と実力のギャップが激しい。帯びと比較すると、自分の技がいっそう貧弱にみえる。帯びに見合うよう、かなり稽古しないといけなさそうだ。またもや、両親のプレッシャーを感じる私だった。この、黒帯びのほうに、「環(たまき)」と刺繍してもらうことにした。「金の刺繍だけはやめとけよ、子どもらに、きんたまきってバカにされるぞ!」。 それはさておき、血の気の多い柔道スタイルに血のような赤や派手な金では、はまりすぎて、やや下品かなあ。さんざ迷った末、すっきりさわやかな水色の文字を入れてもらうことにした。
5/31~6/2には、和歌山県の高校総体があった。これまで対戦した相手を、外から客観的に眺めて研究できて、とても勉強になった。道場の仲間や、近所の耐久、箕島高校の生徒がでるというので、日曜日に男子団体戦と女子の個人戦を応援に行くことにした。男子団体戦は、予選リーグを勝ち抜いた計8チームが、決勝トーナメントへと進む。T高校は、稲村の火で有名な浜口御陵が創設した伝統校で、滝川先生のお孫さんと近所の少年が出ていたので、贔屓で応援する。K高校は、土佐、鹿児島などといった太平洋側の気性に近く、選手の闘争心が高そうだった。応援団も熱くて、保護者の声援が会場でずばぬけて激しい。女子高生の声がひときわ大きく聞こえた。地域が一丸となってK高校を応援している感じを受けた。
一方、我らが中紀地域は、選手も観客もおっとりしていて、淡々と試合をするばかり。M高校も意外や意外。選手はドライで、応援団もせいぜい「よいしょ!」の掛け声ぐらいである。唯一カラーが違ったのは○○高。そろいの黒のTシャツ、円陣を組んで雄たけび、いかにも体育会系ののり。体がごついだけに、知らずに会うと暴力団の若者と間違えそうな雰囲気だ。決勝トーナメントに残ったのは、W高、M高校、K高校など、いつもの顔ぶれだ。決勝戦、因縁のK高対M高の対決は、勤務先のM高の勝利で終わった。
女子の個人戦も、顔見知りが多かった。道場の知り合いだけでも3人。M高の知り合いも3人出場。4会場同時に見るのがとても忙しかった。
用事があって総体を観戦していらっしゃらなかった滝川先生に、日曜日にみた試合の様子を報告した。うまいはずの一年生が、上級生に年の功で翻弄されたシーンや、中紀の子どもたち(大人も含め)がおとなしい様子を話したところ、「確かに地域性はある。九州でも、福岡や鹿児島はスポーツに強く、佐賀県は弱い。和歌山は近畿ではスポーツが弱い地域や……」。先生はご自分の若かりし頃の、全国大会の様子を思い出されているようだった。私は「どちらも、みかんが盛んそうな地域やなあ、みかんづくりと性格に因果関係でもあるんかなあ」と思いながら話を聞いていた。「実業団になると、もっと会社ごとで(カラーが)違うでぇ。差し入れやら持って、大勢で会社ぐるみで応援するとこもある」かつて先生は、安全靴をはいて過酷な夜勤をこなしながらの選手活動だったと聞いている。夜勤の合間に、母校の吉備校(現在の有田中央高校)で後輩(有限会社のオーナーもそのひとり)を指導し、やがてご自分の道場を持つようになり、地域の育成に力を注いでこられた。柔道がまだ(体重別になる前)、無差別があたりまえの時代に、和歌山のトップを歩んでこられた先生。あのヘーシングと対戦した「神永昭夫」と若き頃、対戦したと言うのがご自慢である。先生がスポーツに熱心な大学や企業で、柔道だけに専念していらしたら、私は今のように先生に指導してもらえなかったかもしれない。私にとっては、先生が有田で道場を開いていて下さっていて、ラッキーであった。
さて、決勝で判定負けした、滝川道場出身の78kg級の女子高生には、「彼女はこれから伸びる!」と、暖かいまなざしの先生。しかし、事が御自身のお孫さんとなると、「あいつはもっと練習させないかん」と、急に、“皆の先生”から“祖父”に戻られるのだった。

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