2011年5月16日月曜日

しもたま柔道&闘病日記-その16-

しもたま柔道&闘病日記-その16-
柔道の先生は柔道だけしていると思ったら大きな間違いなのである。他の職業と同じく、いろいろな「柔道の先生」が世の中にはいらっしゃるようである。同じ「柔道の先生」でも、金や自分の名誉ばかり熱心な先生。あるいは「りっぱなお言葉」ばっかりで、自らの実践のない先生。一方で、柔道をやっていれば人は正しい行いが出来ると信じ、いつまでも技の研究、教え方の研究に余念のない、後輩や弟子のためにいっしょうけんめいな先生もいらっしゃる。われらが滝川先生はもちろん、日夜、真の柔道家をめざす、後者の立場の方である。その先生を悲しませた事件が、2004年の1月に全国ニュースとなった、和歌山のK中学校の先生らによる、校長恐喝事件だ。この中学校の先生というのが、柔道部の顧問で、和歌山の柔道界では顔の知れた人だったそうだ。いつもきちんとした服装の人やったんやが、、、先生のショックは大きかった。
滝川先生のお仕事は、平日の午前中に整骨院、そして週に3回の柔道の指導である。柔道の方は、6時半から保育園や小学校低学年の子供たちがやって来て、最後に大人が帰る10時半~11時までの長時間。それだけでも「過酷な勤務!」と思っていたら、柔道連盟の有田支部長という役職も兼任なさっていた。子ども達の大会の運営や、会議で、結構お忙しいようである。大会も、ふつうの昇級試合から保護司の団体協賛のものまで、いろいろあり、そのパンフレットの作成、金策までなさっていたとは驚きだった。以前はもっと忙しく、支部の会計やら事務仕事を、奥様の淳美さんと2人でこなされたらしい。山の会で喩えると、県連の様々な役職をほとんど兼任なさっているようなものである。
柔道家というと、整骨院や学校の先生が多く、大人になっても趣味で柔道を続けている人は、少ない。ただ、「わいが大将よ!」の自営業タイプの人が多いところは、山の会に通じるようだ。山の会には、つくづく自営、職人タイプの人が多い気がする(もちろん、山をやっている医者や教師も多いが)。こつこつと地味に積み重ねる岩山のトレーニング。ほとんど自分との闘いだ。そのかわり、自分を殺して組織の歯車になると、ストレスを溜める人も多いように思う。サッカーは違う。サッカーをやっている人の多くが、仲間との共同作業に快感を覚え、時には自己犠牲を払っても組織に必要とされたい、注目されたいと思っている。山の人が、長期間の山行の全体を、バランスよくみわたす頭脳プレーの、研究者タイプなのに、サッカーの人は目の前の状況にあわせ自分の役割だけに集中する、単純作業の労働者タイプなところが、山とは大きく違う。あんまり山岳史を知らない私でさえ、山登りは上流社会の趣味であったり、医学部山岳会が山登りに熱心だったらしいことは多少知っている。サッカーはご存知の通り、イギリスの「下層民」に起源のあるスポーツ。このように職業と趣味との関係を比べてみると、なんとなーく似た者同志が集まっているようだ。
現実には、趣味のために職業を選ぶような人はめずらしい。ごくまれに、山に長期間登りたいから、サッカーの国体選手になりたいからと、季節労働やフリーターを選ぶ人もいる(数人知ってる、が、体を壊したらつぶしがきかなさそうで心配)。だが、多数の人はまず職業があり、その生活スタイルに合った趣味を選んでしまうのが現実なのかもしれない。私の場合、果樹園の仕事とうまく合うのは、サッカーよりも山や柔道だった。果樹園の仕事は、斜面をよく歩くし重い物を運ぶので、山や柔道のトレーニングに丁度良い。また、趣味で鍛えた身体は、冬の激しい収穫作業を楽にしてくれている。平らな地面を走るサッカーは、足の瞬発力ばかり鍛えられ、農作業とまったく通じるものがない。職業が趣味を決めてしまうのだ。
近頃、山の会に入る若者や柔道をする若者が少ないというのは、農業を専業で継ぐ若者が減った事や、不景気で雇用が減少していることと、あながち無関係ではないと思う。信州時代、サッカーの友人で山の好きな若者はたくさんいた。どうして山の会に入らないかというと、週末に定期的な休みが取れなかったり、長期の遠征に行く休暇や費用がなかったりして、しかたがなしに、ゴールデンウィークやお盆休みに、単発登山をくりかえしているのだ。貴重な休みは、「旧友と語らいながら、ストレス発散!」となるわけである。今の若者の多くは、望む仕事が得られずに、しかたなしにフリーターや肉体労働や不規則不安定な仕事をして、日々生きている。好きな時に練習に行って好きなだけうちこめるサッカーのようなスポーツの方に、のめりこんでいくのはしかたがないのかもしれない。
若者の山離れには、諸説があって、「小さい頃の原体験に、自然との戯れがない所為ではないか」「入会すると山以外の雑用が面倒くさくて、敬遠されるのではないか」というものもある。そういえば私も小さい頃は、川で秘密基地ごっこや魚取りにと、5つ離れた弟と夢中になったものだった。小児喘息のひどかった私は医者の進めで、大気汚染のひどい大阪の下町を離れ、毎週末のように郊外の山(兵庫県加東郡東条町)の中で遊んでいた。テレビもなく同級生もいない山で、自然にあるものをいろいろ工夫して使っていた。その頃、かなわなかったのが、川の支流を探検しにくだっていくこと。父親が、子ども達だけでは危ないといい、父の付き添いで、3人で下ったことがある。今となっては、川は上るより下る方が危なく、知識も装備もない子どもには危険だったと思う。原体験といえば、小学生の頃の私は、同級生とよく取っ組み合いをしていた。はやくに背が伸びたから、小柄な同級生2対1でも、ふりまわして勝っていたように記憶している。あの頃の楽しい思い出が、きっと今の柔道に通じているのだろう。
さて、有限会社の仕事が年末に終わって、ドーンさんの柔道を見ようと思ったら、彼女は旅行に行ってて留守だった。なんと、スリランカの難民に、家を建てるボランティアをしてくるらしい。何を手伝うのかは謎。鋸で木を切ったりするのだろうか?和歌山の英語の先生ばかり十数人で行ってくるという。遠い日本に、英語を教えに来ようという行動力のある人達。困っているアジアの人のために大事な休暇を使おうと気軽に行動できるのだ。ちなみにこのボランティアは、AMDAと呼ばれる国際ボランティアの医師の集団も、別の危険な地区で行っている。お医者様といっても白い巨塔に住む人ばかりでなく、いろいろいらっしゃるものだ。
2週間後、彼女は力仕事でパワーアップして帰ってきた。なんと、鋸どころかスコップも無く、穴を掘るのに木の棒で土をくずし、お皿でかき出すのだという。すっかり日焼けして、もともと元気なのにさらに元気になっていた。日本人の中では色白で、彫りは深いほうであるが、彼女の母親が日系人2世(父方の祖父母がドイツ系で、2世の父親はハワイの日系人の中で育ったのだという)なので、カナダ人の中では丸い童顔。「むこうでサングラスを買うと、鼻からずり落ちるのよ~」と、冗談か本気かわからないことを口走ったりする。日本名も持っていて、「明美(あけみ)」という。道場にはひろみと言う名の子もいて、私があけみちゃん、ひろみちゃん、と呼んでいたら、ある保護者が「どっかの店みたいやなあ」と笑っていた。育ち良さそうなドーンさんには、お店といってもピンと来ないようだった。
しかし、以前、道場に来る途中で道に迷い、ラブホテルの前でうろうろしたときには、「変なモーテルで恐かった、、、」と、さすがに何をするところか、なんとなくわかっていたようである。ラブホテルの名前は、よりにもよって「よあけ」=ドーン(DAWN)だったのだが。「ラブホテルの経営者かい?」とドーンをからかうと、欧米で性産業の女の子をやとっている、本締めの年配の女性に自分をなぞらえ、彼女は自分のことを、「マダム・ドーン」と言って、にやっと笑った。
彼女の柔道は、私が休んでいる間に、予想以上に上達していた。小さい子ども達相手に、恵まれた体格であしらうのはもちろんのこと、70~100kgもある黒帯びの中高生相手に、足技やタイミングで倒すなど、パワーとセンスの両方にみがきがかかっていた。彼女が入ってから、子ども達は影響されたのか、ますます明るくたくましくなった。日本古来の「柔道界」は、良くも悪くも古い体質がそびえているが、彼女のように全く価値観が違う人が入ってくる事で、新しい風が吹き込みそうだ。もちろん、彼女の方は彼女の方で、日本に欧米文化を教えに(押し付けに)来たはずが、逆にどっぷりと日本文化に染まって帰っていくのだ。知らず知らずのうちに、ミイラとりがミイラになってしまっているのはおもしろい。
外国人を投げるぞ!という私のちょっとした思い付きが、私の知らないところですっかり大きく育ってしまい、もはや私には影響が把握しきれない状態だ。その後の「たまードン対戦」やいかに!また、次号にて。

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