2011年5月20日金曜日

しもたま柔道&闘病日記-その22-

しもたま柔道&闘病日記-その22-
マスターズ世界大会の続きである。やがて、試合の時間が迫ってきた。滝川先生も応援席ではなく、アリーナに降りていき、体をほぐすことになった。といっても、実際はアリーナの片隅にある、手近な腰掛けにゆったりと座っていただけなのだが。その腰掛けとは、試合後に使われる表彰台であった。先生は手頃な高さの2位の台の上に腰掛けられた。そこへカメラマンとしてやって来た義兄が「先生、そこは2位の場所やから、1位のところに移らな」と言うと、先生は「そやなあ、今から1位の席を暖めておかんとあかんなあ、、、」と縁起を担いで隣の1位の席に坐った。そこに、例のMさんがやって来て、そうとは知らずにそばの2位の席にそわそわしながら坐った。にこやかにMさんと語らう先生。もう、精神的な勝負は付いたも同然だった。私は奥さんの淳美さんに言った。「先生は(いい表情をしていらっしゃるから)大丈夫や。これはいける!」
さて、いよいよ試合である。何十ヶ国の人々が緊迫して見守る中、滝川先生の背番号が呼ばれた。堂々と受付でIDカードを預ける先生。先生は白(国内ルールではもう一方は赤だが、国際ルールでは青)。審判の手前側にいる先生は、しこを踏むように屈伸し、手足の裏の汗をぬぐう。気合いを入れている姿は若々しい。一方の青側のMさんは、遅れてやって来た。足取りも重く、一度、別の会場の方に歩いていって、顔を背け、深呼吸をしようとしていた。ところが、審判は会場を間違えたのだと思い、そっちゃじゃない。こっちにこいとMさんを呼び戻した。気まずいMさん。互いに礼をしたとたん、審判はいきなり「ハジメ!」と日本語で叫んだ。相撲じゃないんだから、線の上で始め!(はっけよい残った!)はナインじゃないの?日本の柔道は、礼をしたあと、ファイティングポーズをしてから「始め!」と合図するのが常識である。が、国際試合では勝手が違うようだ。
いきなりのハジメ!で出鼻をくじかれた気持ちは、Mさんも滝川先生も同じだったことだろう。しかし、滝川先生の気持ちは、イメージトレーニングの世界へと、しっかり向かっていらした。あらかじめ、国際ルールを熟読していらした先生は、赤いエリアに相手を長時間追い込むことを基本にし、いろいろな闘いを想定して、作戦を組み立てていた。右組の相手なら、けんか四つ(先生は左組)、追い込んだら足払いが来るに違いない。案の定、Mさんのすばやい足払いが、先生のイメージのままやって来た。さすがは重心の安定したMさんであるが、足技が十八番の先生に仕掛けてしまったのが運の尽き。見事な「燕返し」を食らって、宙を舞い、そのまま赤いエリアの上にドーンと倒れた。空中で真横に身体が回転し、一瞬中に浮いた。「イッポン!」と審判の声。先生、国際戦初デヴューを初勝利で飾る。開始からわずか十数秒のことだった。
歓声が会場から沸き上がった。滝川先生の技があまりに美しかったからだ。まわりの65歳以上の外国人の多くは、力で振り回したり、捨て身の勢いで相手を無理矢理引きずり込んで、力でねじ伏せる柔道。先生の日本柔道らしい際立った動きは、目の肥えた観客の目を釘付けにしたのだ。私達のとなりにいたアメリカ人の一家も、一緒になって勝利を喜んでくれた。そして、自分の試合の前に、テーピングのテープを額に巻いて欲しい(お守りがわりに)と、隣の滝川先生に申し出た。先生の勝った手で縁起を担ぎたかったのだ。彼は、お守りのお陰か、次の試合は不戦勝だった。この一家は、アメリカで柔道教室をしているらしく、教室のロゴの入った記念品を、帰り際に滝川先生にプレゼントしてくれた。
2試合目の相手は、ニュージーランド人のTさんだった。彼は、Mさんほど俊敏ではなく、先生がライン際に押し込むと、押されるがままに場外に出てしまった。3度目に押し込むとき、先生に向って無謀な支え釣り込みを試みてきたので、先生はすかさずその足を抱えて朽木倒しにもっていった。「イッポン!」の声は小さく、押え込みに入ろうとする先生の耳には届かない。観客席から、淳美さんや隣のアメリカ人や、皆で「一本勝ちやで!終わったで!」と先生に向って叫んだが、先生はまだ信じられないご様子だった。この一本勝ちも、会場は大歓声だった。ビデオに撮っている人も数人いた。Mさんの試合前の言葉を借りれば、まさしく、本家日本の柔道というものを、世界に見せたのだ。先生らの試合に触発されたのか、もともとうまい人が多かったのか、その後の試合では、はなやかな巴投げなども多少あったが、先生のような足技で巧みに勝つ選手をたくさん見かけた。先生の柔道が、明日の世界の柔道を変えたかもしれないのだ。
日本選手団は、お医者さんや学者、警察庁出身者などがそろい、肩書きの重んじられる雰囲気だったが、この2勝で滝川夫妻はお株が急に上がったようだ。奥様方のどんな豪華なドレスも、金メダルの前では霞んでしまうかのようだった。一方のMさんはお気の毒で、自分の柔道をする余裕も無く負けてしまい、一生忘れられない悔しい思い出を作ってしまったようだった。そして、無差別級にも出ようとする先生の所に行って、こう言い放った。「先生はもう、金メダル取ったから、無差別はいらないでしょう」。先生にもう出るなという牽制だった。心やさしい滝川先生は、本当は無差別にも出たかったのに、Mさんの気持ちを汲んで、出場を辞退された。私達は、先生の辞退が非常に残念だった。もう一つ金メダルを逃したからではない。せっかく遠くから来たのに、1試合でもたくさん試合をしないともったいない。先生のかっこいい試合を一つでも多く見たかったのだが、、、。
試合の後、昼をまわった2時か3時ごろに近くの地元料理のレストランで食事を取った。金メダリストを囲んでの食事は、生まれて初めての経験だ。日本食以外で、始めて先生の口にあうものがあった。麺入りの肉野菜スープだ。先生はおっしゃった。「ドーンさんが、日本でどんなに大変かようわかった。あいつが練習中、(口に合わない日本の)お茶をよう飲まずに水ばっかり飲んでいるのを、不思議に思うておったけど、今ならよう分かるわ」先生は、勝利の余韻に浸っていらっしゃるとばかり思っていたので、意外な言葉だった。ウィーンにいる間、自分の試合のことばかりでなく、道場の子ども達やドーンさんのことに、いろいろ思い巡らせていらしたようである。ここの道場で柔道してきてよかった。いっしょに応援に来てよかった、心からそう思った。
夕方、どしゃぶりの雨の中先生の表彰式があった。暖めていたあの1位の席に先生が立つ。金メダルをかけてもらい、握手をする先生。国歌「君が代」が流れ、勝利のポーズをする先生。ああ、本当に優勝したんだという実感が、しみじみわいてくる。
義兄曰く「自分が柔道の試合に出たときよりも、緊張したわ」。私も同感だ。先生に私の緊張を悟られないように振る舞うのが、とても難しかった。どきどきは、選手にも移りやすいからだ。義兄が写真係、菰池がビデオ係で、観光から試合、表彰式までしっかり撮影してまわった。試合本番に撮影を失敗しないかという点でも、とても緊張した。もし、スイッチの押し間違えをしたとして、「先生、もう一度試合をやり直して下さい!(Mさん、もう一度だけ投げられて下さい!)」とは、言えないのだから。淳美さんも語った。「先生は、ちょっと試合してくる、お前も来るかと言う感じやったので、そんなにプレッシャー受けているとは知らなかった。なんも言わんと、だまったままやった。でも、黙っている男は強いわ」。べたほれのご様子。
帰国して写真を現像してみると、あの燕返しの瞬間が、うまく写真に撮れていた。後日、新聞社の取材を受け、例の写真はカラーで地方版に掲載された。「滝川先生金メダル!」の話題は、有田じゅうの柔道界に知れ渡った。行く先々で、滝川先生の金メダルの評判を、道場の子ども達の活躍とともに聞くことになった。舞い上がったのは、子どもらの保護者だ。「金」と聞いただけでメロメロである。保護者が中心になって、祝賀パーティが開催された。柔道の練習中の保護者の雑談も、“先生の鶴の一声”で静かになる。金メダルの威力はすごい。
先生の試合から3週間後の7月18日の日曜日、われわれの合唱のコンサートがあった。ウィーンで3度もオペレッタを鑑賞し、イメージトレーニングばっちりだったので、旅行の後、合唱団の練習に復帰しても、ブランクを感じるどころかとても歌いやすくなっていた。本番は、練習やリハーサルよりもうまくいき、和歌山の人は本番に強いと、指揮者の藤岡幸夫先生はべたほめだった。紀峰からは、そうさん夫妻、南本さんのお母さんなど、たくさん聞きにきてくださった。かみたま&ジミーさんは素敵な花束を、山田さんは、合唱の写真を撮影し、編集し、素晴らしいアルバムをプレゼントして下さった。この場にて、お礼申し上げます。
これが、脈絡のなさそうな2つの出来事、「合唱」が「マスターズ柔道」に化けたという事の顛末である。靭帯を切って、柔道と関係ないことをしばらくするつもりが、思いっきり関係があったというお話。われわれまでが、滝川先生のマスターズの応援にウィーンに行くことになろうとは、今年のお正月には想像も付かないことだ。そもそも、第九合唱団、ウィーン旅行、マスターズの金メダル、、、それもこれもすべては2月の山田さんの合唱のコンサートから始まったのだ。山田さん、重ねがさね本当にありがとうございました。

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