2011年5月20日金曜日

しもたま柔道&闘病日記-その21-

しもたま柔道&闘病日記-その21-
この夏(2004年の夏)は、滝川先生のマスターズの応援にヨーロッパ、オーストリアのウィーンに行ってきた。マスターズというのは、いろいろな競技にあるが、年齢別に分かれて出場できる大会で、柔道の場合は30歳から5才ごとに、上は80歳以上の部にまで分かれている。5日間のうち、階級別の試合、「形」の試合が男女それぞれ行われている(この、形の演武に、大谷氏と「柔の形」で出場したかったが、まだ叶っていない)。まだ、始まったばかりの大会で、第五回大会が去年東京で行われ、第六回大会の今年はウィーンで行われたのだ。なぜ、我々までがウィーンに行くことになったか?事の始まりは、紀峰山の会の山田守氏にあった。
紀峰山の会(和歌山県勤労者山岳連盟)の沢部は、いつもは年末に忘年会を行うのだが、みかん屋の幹事の都合で、2004年の初めに新年会を行うことになった。会場はいつものごとく、北原邸。ミカン山の尾根の上の、素敵な山小屋の中で、宴もたけなわの頃、山田守氏が沢登りやオペラのビデオ数本を私達に下さった。そして「2月に、和歌山市の合唱団のコンサートがあるから是非」と切り出してきた。日頃、合唱を聴いたことの無い私は、山田氏の人柄だけを信じて聴きに出かけた。同じ沢部のそうさん夫妻もいらした。子どもの合唱やママさんコーラス、男性だけのグリークラブのコーラスのイメージからすると、大人の男女の大勢の混声合唱は、迫力があって音色に変化があって、不思議な魅力があった。プログラムと一緒に配られたちらしの中に、「ウィーンの歌を歌いませんか」という和歌山第九合唱団の宣伝があった。ウィンナワルツの好きな私は、興味をそそられ、一かばちかのぞいてみることになった。
「ちょっと見学」と思って入った、児童女性会館のホールは、男女比が1対5の60人程の人でにぎやかで、いきなり楽譜を渡され、2時間みっちりと歌うはめになった。そんなつもりじゃあ、、、声がかれ、全身汗だくの筋肉痛である。柔道よりきつい。しかも、練習の後、新入りのコーナーで入団抱負のスピーチときた。結果、もうしばらく通ってみることになった。やがて義兄の従兄弟やその友達も誘い、紀峰山の会の竹平さんや岡さんも誘った。山の会の田口さんはすでに入団しており、テノールを歌っておられた。段々と、引っ込みがつかなくなってしまった。
合唱の練習日は、主に金曜日で、柔道の月水金の練習に重なっていた。そこで、合唱を7月まで続けるので、しばらく金曜日はお休みしますと、柔道の滝川先生に伝えた。先生が「何の歌を歌うんや」と尋ねられたので、「ウィーンの歌です」と答えた。すると、「なにぃ、ウィーン? わしもウィーンに行きたかったんや」とのたまう。「今年、ウィーンでマスターズ柔道大会があるんや。ウィーンに(ツアー観光ではなく)個人旅行で行きたいと去年子どもらに言ったら、おとうさん、迷って危ないからあかんって言うんや」。その場にいた、もと女子高生、現在女子大生の子と私はびっくりして叫んだ。「先生、そんな事言わずに、行きましょうよ!」「先生なら勝てる!」「でもなあ、もう、締め切り来てるかもしれんし、、、(申し込みかたがようわからんのや)」 。その話はここで終わるかにみえた。
家に帰ってその事を義兄に言うと、「今からインターネットで調べてみる!」とすぐさま、マスターズの公式ホームページを探し当て、募集はこれから郵送で行われること、日本からは選手団のツアーが組まれることを調べ上げた。そして、先生のお名前で大会申し込みの資料請求までしておいたのである。滝川先生は、ウィーン行きが決まるや否や、パスポートを申請。90kgの高校生や178cm80kgのドーンさん相手に、せっせとトレーニングを始めた。その後、義兄や私達と共に個人旅行で行くことを薦めてみたが、初めてのヨーロッパでもあるし、結局は、先生は奥さん、お孫さん(大学生)の3人で、新幹線で東京の選手団のツアーに合流することになった。
菰池のほうはというと、全日本柔道連盟のホームページで、国際ルールの小冊子を見つけ(国内の講道館ルールとは少し違う。例えば、「有効」の下に、さらに「効果」がある)、先生にプレゼントした。先生の方も、観光を装ってこっそりと試合に行くわけにも行かず、盛大な壮行会で子どもら手作りの千羽鶴を渡され、プレッシャーの中、出発するはめになってしまった。さらに我々も、先生を応援するという名目でウィーンに行き、さらにプレッシャーをかけることになった。合唱の本番直前に、である(旅行中、合唱の練習を3回もサボったので、もうやめたらしいといううわさが飛んだそうだ)。
われわれは超貧乏旅行で、往復はマレーシア航空の南回り。片道だけで20時間以上“機上の人”の長旅。行きはコタキナバル(カリマンタン島)とクアラルンプール(マレー半島)の2ヶ所を経由。帰りは2泊機内でして、経由地クアラルンプールでは16時間もゆっくり!?できる。ウィーンでは、にぎやかな都心のユースホステル泊り。もちろん大部屋。キャピキャピの若者が隣のベッドでさわいだりエッチしたりしていても、毛布をかぶって熟睡しなくてはならない。一方、日本選手団の方はと言えば、東京からウィーンへ直通のオーストリア航空。大会前後にプラハやコペンハーゲン小旅行、大会期間中にドナウ下り、ブダペストやザルツブルグ訪問といったオプションツアーが付いていて、超リッチ。静かな森の中の中高級ホテルに滞在する。
われわれは、一足先にウィーン入りし、オーストリア南部のグラーツ(時計台の美しい街。古都の風格の中、斬新なデザインの建物が、川岸に建っていた。ここで、東京バレエ団の一行に会い、若いプリンシパル達が楽しそうに会話しながら、時計台を登って行くのに出会った)を観光して、試合前日の6月30日に滝川先生らと合流した。久しぶりに先生にお会いして、正直、うわっと思った。先生のお顔が、あまりにやつれていらしたからだ。聞くと、12時間の飛行機の中、一睡もしていなかったのだという。「先生はねぇ、ずうっと前のモニターを見てたんよ。12時間も。そんだけ地図を眺めてたら、ええかげん(世界の)地名を覚えたやろうにねぇ~」と奥さんの淳美さんは辛口。さらに、プラハ小旅行など移動ばかりで、しかも普段パンを食べなれていない先生は、食事が口に合わず絶食が続き、この4日間で2kgも痩せていらした。とても、今から大事な試合をするという感じにはお見受けできなかった。あとで帰国して、目の下に隈でなく(血色不良で皮膚が真っ黒の)顔じゅう隈みたいでした!といったら、とても嫌な顔をなさった(すみません!)。しかしそれは冗談ではなく、肝臓だか内臓か悪いような、黄疸を通り越した土色をなさっていた。病院で栄養点滴をするレベルだと感じたが、はっきり言ってしまえば試合の士気を下げるのでそれも口には出来なかった。先生にはとにかく休養と栄養が必要だった。
しかし、先生は日本食レストランと観光をご所望され、我々は「はは~!!」とばかりにレストランに同行する。ただの白いご飯とお味噌汁を前に「こんなのが食べたかったんや」と先生。急に元気を取り戻されたようだ。ウィーンの名物、シュテファン寺院に行ったり、フォルクスオーパーという劇場でオペレッタを鑑賞したりして、その日もばたばたと過ぎていった(「オペラっちゅうもん見てきた」と、後で東京の選手団で話したところ、皆、うらやましがり、次の日、オペラの予約に奔走したそうだ。しかし、ウィーンのオペラ界は7月1日からサマーバケーションで、もう、公演はひとつもなかった)
次の日、滝川先生と試合会場の前でお会いした。試合前で気合いがこもっているのか、「たったっ たまきさんか、きっ きっ 来てたんか」と、ふるえ声の先生。義兄が「先生、大丈夫ですか」と尋ねると、「だっだっ大丈夫や!」。顔色は幾分かマシになっていらした。とは言え、昨夜ぐっすり眠れたとは到底思えない、お疲れのご様子。こんなことなら、日本選手団と一緒にプラハに行かず、別行動で私達とのんびり、ウィーンでうだうだしていればよかったのになあと悔やまれた。この日のために、先生は、何ヶ月も前から中高生相手にトレーニングを積み、コンディションを整えてこられたのだ。過労と寝不足で実力が発揮できなかったら、あまりにもったいなさすぎる。
試合は、若い年代から順で、先生の試合は午後に持ち込まれそうだった。それまで、他の日本人の人達と一緒に、応援席で腰掛けていた。私は滝川先生と、先生と同じクラス(同年代で同じ体重)のMさんとの間に腰掛けていた。Mさんは大会の常連さんで、過去に3度も金メダルを取った猛者だ。緊張しているのかそれとも余裕なのか、ぺらぺらと私達に語りかけてくる。「柔道というものはねぇ……」「私はこれぞ日本の柔道という試合がやりたいんですよ」。先生にも「われわれ日本人2人で金銀取りましょうよ」などと、プレッシャーをかけてくるが、先生はちっとも意に介さないで、前を向きすましている。私はMさんに調子を合わせてしゃべっていた。しかし、自分の柔道の勉強と思い、「今の試合は何秒間の押え込みですか?」など、質問してみた。国際ルールは国内より押え込みの時間が短いので、よく知らないのである。すると、あの自身たっぷりげなMさんが、「ええと、10秒だったかなあ、技ありが20秒だからええとええと、、、」と、動揺し始めたのだ。滝川先生が普段、「身長178cmのカナダ人と練習している」と知るや否や、Mさんは「私、下で練習してきます」と、そそくさと逃げていってしまった。その後、Mさんの緊張が増したのはいうまでもない。なにせ、Mさんと滝川先生は第一試合であたるのである。Mさんは、そのカナダ人というのが、筋骨たくましいシュワルツネッカーではなく、いたいけな金髪の美少女などとは知る由もないのだ。ごめんねMさん。続きは「その22」にて。

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