2011年5月23日月曜日

しもたま柔道&闘病日記-その34-

しもたま柔道&闘病日記-その34-
理学療法士とは、私にとってはスポーツ復帰のために助言してくれるマンツーマンの先生であると思っていた。受験のための家庭教師のように「この時期にはこの問題集だよ」とか、試験に向けて長期展望を持ち、欠点を克服し、長所を伸ばしてくれるものだと思っていた。ところが、理学療法士Q氏やY氏のイメージするリハビリは違った。自主性を無視し、全てをマニュアル通りに管理した。“スポーツやリハビリに無知な者”を扱うように、、、ふと私は、最近の子ども達も学校で、教師にすべてを監視され、こんな気分を味わっているんだなとも思った。彼らは、豚や鶏の群れを飼育するように、検査や測定をし、悪化しないよう行動を管理しようとした。彼らは患者に、リハビリをまかせるたがらない。何かあったら、責任は取りたくないから患者を管理する。信用されずに頭ごなしに叱られるから、多くの患者はかえってやる気が出なくなるのだが、、、。

こうして、家の近くでもりもりリハビリをしようと欲張ったところ、「魔の2週間」のせいで、逆に回復を遅らせてしまった。やっぱり、切ったところで診てもらうに限る。主治医に嫌われた以上、海南でリハビリは続けられない。角谷に戻るしかない。問題は誰がリハビリを引き継いでくれるかだが。海南のあの温厚な理学療法士、そして、私を選手として扱ってくれたスポーツドクターと別れるのはつらかった。翌週、松葉杖を返しがてら、スポーツドクターに会って、診てもらったばかりなのにもう病院をやめることを告げた。ドクターは驚いていたが、「4月からランニングができるように、角谷に紹介状を書いておきます」と約束してくれた。かすかな希望の火がともったことに、感謝した。
面の皮を厚く、平気の振りをして角谷に舞い戻った私。岩崎医師は気持ちよく受け入れて下さった。そして、自分の過ちではないのに、その病院の医者の態度をゆるしてくださいと、私にあやまって下さるのだった。転院した私に、「ほれ見ろ」といっても仕方が無いのに、どこまでも理想の医師の態度をつらぬく、ありがたい先生だ。
一方、理学療法の部屋に行くと、担当はまたもやY氏だった。Y氏も嫌な患者が舞い戻って、不幸だったことだろう。Y氏は過去のことは良いことも悪いことも全て水に流して接してくれた。つまり、角谷を去る時どんな足の状態でどれだけリハビリが進んでいたか、全く覚えていなかった。私のリハビリは、入院中のレベルにまで落ちてしまった。
「魔の2週間」の後、膝の腫れが引いてきてリハビリやる気満々の私は、適切なトレーニングに飢えていた。
Y氏のリハビリ手順はいつもこうである。まずどのくらい関節がゆるいかを最初に確かめる。まるで重度のアル中患者のような手つきだ。膝の奥の靭帯が振動し気持ち悪くなってくる。それでも、その儀式が終わらないと次のステップに移らないので早く終わることを祈って我慢する (ちなみに、膝をゆするとかえって回復が遅れる。最悪の場合は靭帯をいためる)。続いて、「まだ膝頭は傷みますか?」と必ず聞いてくる(膝頭に痛みを抱えているから、揺すると痛いと思い込んでいる)。「膝頭はまったく痛くないです」と何度言ってもすぐ忘れるので困惑する。他の患者と混同しているらしい。痛くないというと、私に診察を拒絶されたと思い、困った顔をしている。つづいて、足首を持って筋トレだ。足首を下に引っ張りながら前後に動かすので、膝が抜けそうでこわい。機械を使って筋トレするほうがよっぽど安全だと思う。多くのお年寄りがリハビリに行くと余計に悪化するとぼやいている気持ちが良くわかる。
仕事が熱心で几帳面な方なだけに、今さら「他の理学療法士にして欲しい」と言い出すきっかけもつかめず、私は悶々としながらリハビリに通った。そのころ、私の自主トレは日頃のウォーキングと自転車の他には、「ハーフスクワット」と、「かかとあげ」だった。このメニューははるか昔の入院中にトレーナーの西林さんに健脚の右足用に組んでもらったものだ。その後、岩崎先生の指示で両足で行うようになったが。そして、海南で習ったスケーテイング(アイススケートのような動作)。たったそれだけだった。
私は自己アピールを惜しまなかった。「もっと、いろいろできます。筋トレを増やして下さい」と、思い切ってお願いしたところ、こんな指示があった。「まず(座って足を投げ出し)足の甲をのばしたり爪先をあげたりを10回して下さい。それから寝転がって足を空中に持ち上げて数秒我慢して下さい。」目が点になった。それは私が術後4日目に行っていた、ごくごく初歩のトレーニング内容だったからだ。毎日2km歩いたり、たまに数km自転車にのったりしたりして、足首の筋肉はしっかりしていた。正座事件で筋肉が落ちたというものの、そこまで筋肉が無いわけではない。高校生が受験を前に、ひらがなや九九の練習をしているような、そんな気分を味わった。寝る間を惜しんで遠距離を通院する時間がもったいなかった。
春休み、私は筋トレを兼ねてみかん畑に繰り出した。柔道はさておいて、今年の11月に収穫作業に復帰をするために、畑仕事のトレーニングだ。始めは平らな畑で、短時間から始めた。1本の木につき何度も屈伸をする。土の地面に立つだけで、バランス感覚を培う効果もあった。4月の私は希望に満ちていた。ランニングができる日が来ることが心の支えであり、リハビリを続けるモチベーションだった。筋力は日ごとに高まり、柔軟性も高まり、短い時間なら正座ができるほど膝が曲がるようになっていた。私は再びY氏に、さらに進んだ筋トレを組んでくれるよう頼んだ。するとY氏は、ゴムバンドを使ったリハビリ方法を教えてくれた。ゴムを足に巻きながら、腿上げや開脚をするという。ようやく、筋トレらしくなってきてうれしかった。Y氏はしばらく考えてから言った。「ホームセンターで一番弱いゴムを買って下さい。」一番弱いゴムというのは、付けたかどうだかわからないほどの弱さで、手で簡単に引き千切れそうだった!!まるでコントの世界だ。ただ笑うしかない。
Y氏にわかってもらうには、筋力測定を受けるしかない。 Y氏は検査を重んじ、科学的数値に信頼を置いている。数値で私の筋力を知ったなら、きっとふさわしいリハビリを組んでくれるに違いない。私は診察で岩崎医師に、筋力測定を希望した。しかし、事情を知らない岩崎医師は笑うばかりだった。「今、筋力測定をしても、思ったほどなくてがっかりしますよ。6月頃にしなさい」。私はすぐさま623日の検査を予約し、代わりにレントゲンを撮った。結果、骨の硬化も順調で、重い荷物を持っても大丈夫。軽いハイキングもOKという。背負い投げで相手の体重が乗ってきても、もう理論上は、関節に関しては大丈夫ということだ。ただ、相手のある「打ち込み」はまだ止めておくようにと言う。筋肉が伴わないと、肉離れを起こしたり、靭帯に負担がかかって危険なためだ。6月の筋力測定で安全を確認したらOK。ということは、5月に筋力測定だったら、5月に許可がもらえ「打ち込み」ができたのになあと思った。が、あせらなくても自分さえしっかりしていれば筋トレはやり遂げられると、まだ信じていてた。筋力測定の結果がよければ、7月から柔道の打ち込みや投げ込みができる。早ければ、秋には「乱取り(試合形式の練習)」ができるかもしれない。1年もあれば、練習試合できるまでに動けるだろう。そして、リハビリの遅れを取り戻すのだ。
そのころ、角谷整形外科では、理学療法室の大改革が始まっていた。まず、たくさんあったトレーニング機器は半分に減り、その空間には新しいベッドが置かれた。そして、新卒の理学療法士を大量採用したのである(われらがY先生も新人が付きっきりで、Y先生から技術を学ぼうと懸命だった)。私が遠方からリハビリにくる目的のひとつは、この機器だった。上半身の筋肉を落とさないように、油圧式や空気式の機器を使ってのトレーニングは、手術前から、かれこれ半年は続いている。その機器が無くなって、練習量が半分になったという訳だ。私は、柔道場で筋トレをすることを願い出た。道場には鉄アレーやゴムバンドがある。週に2回の和歌山通いを1回に減らし、そのかわり道場に週に2回通えば、充実したトレーニングができる計算だった。
「練習量を減らしたい」Y氏に相談すると、あっけなく意外な答えが返ってきた。「もう、ジョギングをしてもいいし、一人でするスポーツなら何をしても良いですよ。サポーター無しで筋トレしてもいいです。もう、筋トレに制限はありません。柔道場では、相手のない練習だったらどうぞお好きなように」。足首体操の次はいきなり無制限ですか?!同じ4月なのに、極端な対応だ。が、私は素直にジョギングの許可を喜び、柔道場に戻れることにわくわくした。まずは、柴犬との散歩で短い距離を駆け足で走ってみて、調子が良さそうだったら柔道場の往復を、走っていくことにした。来年夏の試合に向けての練習が、いよいよ目にみえて来た気がした。

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