2011年5月23日月曜日

しもたま柔道&闘病日記ーその31-

しもたま柔道&闘病日記ーその31-

私が柔道復帰するには、正しいトレーニングで地道にやるしかない。2004年1月2日に怪我をしてからの1年間、あまり運動をしなかったので、大腿部の周囲が10cm近く細くなっている。そして、これからしばらく歩かないから、さらに細くなるという。究極のボディビル、肉体改造がこれから始まろうとしている。
最初のリハビリは、自動マシーン(CPM)で膝関節を動かすものだった。これは、新しい靭帯に負担をかけないように、徐々に膝の可動域を広げていくストレッチのようなものだ。術後1週間目から行った。医師によると、毎日15度ずつあげて行って、120度まで曲がれば退院できるという。理学療法士Q氏が寝る前に来てセットしに来た。寝返りで誤作動しないようにと、私が数値をいじれないようにして帰って行った。翌朝のリハビリでQ氏は尋ねた。「1日何時間くらいCPMを使いましたか?」そのとき、寝る前と起き抜けの1時間ずつトレーニングしていたので答えた。「2時間くらいです」「ええ!一日たったの2時間?」私は、Q氏の言葉からCPMは長時間するものだと解釈した。1月から仕事に復帰するつもりだったので、3~4週間で退院するべく、せっせと食前食後に機械を活用した。ところが、Q氏は忙しいのか、病室に全く現れなかった。他の患者もQ氏の態度を不審がって、「あんたがリハビリをサボるから病室に来ないんじゃないのか?」「もっとマジメにCPMやりなさい」と言い始めたからたまらない。24時間暇な“ご隠居達”の監視のもと、私は毎日十数時間もCPMをさせられるはめになった。あとで、やり過ぎと、こっぴどく叱られるまで、、、

手術して10日経った。足は順調に治っていた。理学療法士Qの指示で足を持ち上げ、3秒間保持するトレーニングが始まっていた。家族が来るまでは、ジャージや下着の洗濯をしたり近くのスーパーに買い出し(自分のコーヒーや牛乳ばかりでなく、見舞い客用の飲み物など)に出かけたり忙しかった。2004年もあと1週間となり、有限会社の収穫作業も一段落。ようやく生野の実家の親や義兄らも、ちょくちょく来てくれるようになった。忙しいことをわかっていて12月に手術したのだから、しかたのないことだ。松葉杖の日常生活のお陰で、上半身や右足の筋肉が、手術前よりも増加していた。しかし、関節を伸ばしたまま固定された左ひざ関節は、日ごとに固くなっていった。本当にあと2週間ほどで退院できるのか?なんだか、雲行きが怪しくなってきた。
この日、岩崎医師の診察があった。「CPM(ひざの可動域を広げる機械)は、何度まで進みましたか?」「まだ、30度のままです」「毎日1015度あげるように言ったでしょう!」普段は温厚な医師が、この時は顔をこわばらせた。「私が動かせないように、理学療法士が装置をロックしているんです!」「看護婦に言いますから、あとで上げてもらいなさい」。私は、順調な回復を誉めてもらえると思っていただけに、衝撃を受けた。看護師さんは、機械のロックを解除すると、自分で角度を変える方法を丁寧に教えてくれた。その日のリハビリでQ氏に、「岩崎先生の指示でCPMを45度に変えました。」と告げた。「あっごめん!忘れてたわ~」とにやにや。Q氏は忙しくて病室をまわるのを忘れていたというのだ。あまりにあっけらかんとしていて、ラテン的なQ氏らしかった。「なかなか角度を変えに来てくれないので一生懸命、一日十時間以上していたんですよ」と、ちょっといやみっぽくいうと、Q氏は「そんなに長時間していたんか!なんて無茶な!」と絶句した。12時間の時は短くて、十時間以上は長いということは、本当はどれくらいやればいいんだろう。病室に帰った私は、他の患者の前で看護師さんにCPMのやり方を尋ねた。というのも、同じ部屋の患者は、やればやるほどいいと思っていたので、誤解をみんなの前で解くほうがいいと思ったからだ。看護師は言った。「長時間しても効果はありません。短い時間で、一日に何度もやるのが効果的ですよ。最初は弱く、だんだん強くなっていくでしょう。いきなりやると関節に負担がかかるからです」。私はこの言葉でCPMの意義を知った。CPMはストレッチ体操なのだ!と。看護師はいつも指示が簡潔で適確だった。
もう1人、私には心強い味方がいた。スポーツトレーナーの西林さんである。彼女は頭の回転が速く、説明が具体的で分かりやすかった。例えば、「歩くためにどんな筋トレが必要か」という質問に対し、「その前に、忘れてしまった歩き方を思い出すこと(イメージトレーニング)から始めましょう」と、リハビリの初歩から、順序立てて教えてくれた。人は、1週間も寝たきりだと、歩くための筋肉の使い方を忘れてしまう。力を入れているつもりで、大腿部に力が入っていない。具体的に目で見てわかるように説明してくれた。後に、スポーツ復帰に際しても、神経の感覚を取り戻すこと、筋肉のバランスが大切であることを教えてくれた。日常のリハビリが終わったあとも、スポーツリハビリを根気よく続けてくれた。彼女のお陰で、なぜ足裏を空中に持ち上げたままトレーニングすると危険か(脚のどこかを床につけたままが良い。不安定な要素が増えると、靭帯に負担がかかる)、大腿部の伸筋と屈筋の両方を使ってトレーニングすべき理由(屈筋が縮む事で、靭帯が伸びるのを防いでくれる)といった事が、科学的に理解できた(左大腿部のハムストの屈筋を、トレーニングにより一生涯維持しておかないと、再建した靭帯に直接負荷がかかってしまい、もう一度靭帯断裂につながり、危険である。なぜなら、2回目の手術は、右のハムストから筋肉を取らねばならない。つまり、両足の手術のために車椅子に何ヶ月も乗ることなり、つまり、リハビリを失敗すると最悪、二度と歩けなくなる)。そして、長期的視野で持って、今行っているリハビリの自分の位置を把握させてくれた。彼女のお陰で、何人もの患者が、スムーズに日常復帰、スポーツ復帰していったことだろう。もっと、給与や待遇が、評価改善されるべき人だ。
病院で今年のクリスマスと正月を過ごすことになった私は、正直、あまり期待していなかった。ところが、角谷整形外科の病院食は“素晴らしすぎる”のである。もともと、どんぶりいっぱいのご飯に、こってりしたおかず。とても病人食とは思えない、「整形ならでは」の食事だ。(脂肪と炭水化物がやたら多くて、肉体労働者向きである)。それが、さらにパワーアップ。1224日のクリスマスイブの昼食は、鶏のもも焼きとショートケーキが出たから驚きだ。31日の年越しそばに、かきの炊き込み御飯、正月3日間は餅が二個も入ったお雑煮に日替わりおせち料理。なにもしないと、ぶくぶくと太ってしまう。「食べた分、しっかりリハビリしなさいということか」と、カロリーを消費すべく、一日2回せっせとアスレチックジム通いに勤しみ、病棟ではバレエの基本練習のように足を持ち上げて保持したり、ストレッチをしたりとリハビリに励んだ。入院前は仕事疲れでぼろぼろだった私は、退院する頃にはかなり筋肉量が増し、1ヶ月禁酒したこともあり、かなり健康になって帰れた。
さて、足も曲がるようになったし、さあ退院しようと思い、正月あけに岩崎医師にその事を告げると、装具無しで仕事をしてはいけないと言われて困ってしまった。装具さえあれば、いつでも左足に荷重をかけてもよいという。私は術後が順調であり、すぐに退院できるものとばかり思っていたので、寝耳に水であった。装具屋は年末年始が休みだった。学校の授業は1月11日から始まる。つまり授業に間に合うように帰ろうと思ったら、年末までに装具を注文しておかねばならなかったというのだ。「そんな大事なこと、もっと早く言ってくれ~!」と思ったが、岩崎医師の最後の診察の頃にはまだ、足が30度のまま(例の手違いでQ氏が、私が自分でCPMの角度を調節できないことを忘れていた)固まっていたわけだから、岩崎医師もまさか、正月あけに110度も曲がっているとはよもや思わなかったに違いない。私の足はすでに110度以上曲がっていて筋力があり、いつでも杖なしで歩ける状態なのに、装具がないばかりに松葉杖をつかざるをえないジレンマ状態だった。焦る私に岩崎医師は言った。「一生のうちで今がいちばん大切な一ヶ月です。今さえ我慢したら、いくらでも働けます。退院を急がない方がいいですよ。たとえ装具をつけたとしても、最初は三分の一荷重。それから二分の一荷重、少しずつです。急には動けないことをわかってほしい」。正論である。しかし、私は非常勤講師という不安定な身分。給与の+αで中学校ともめた経緯もある。始業式直前になって、「まだ仕事できません」「いつ仕事復帰できるか皆目わかりません!」などと言えない。せめて年末に分かっていたら、代りの教師を探せるものを、このままでは同僚の先生や子ども達に迷惑をかけてしまう。自分の良心が、「無責任はよくない」と叫んでいる。医師やリハビリ師の目には、文句が多くて、扱いにくい患者にみえたことだろう。だが私は、せっかく得た仕事を辞めるつもりがなかったから、必死だった。
熱意は報われた。その日のうちに岩崎先生が言ってくれたのだろう。理学療法士のQ氏が、三分の一荷重の許可が出たことを教えてくれた。仕事を辞めずに済むかもしれない。翌日の1月7日、装具をあつらえるための計測を行った。14万円の装具は3週間かかるが11万の装具なら1月14日には届くという。迷わず安くて早い11万のを注文した。そして泣く泣く附属中学校に「1月14日は学校を休みます」と電話した。
待ちに待った1月14日、装具が届き、岩崎医師の診察があった。「寝るとき以外、装具を着けて下さい。装具を着けていれば、膝を(ハーフスクワットまで)曲げてもいいですよ。少しずつ、杖なしで練習して下さいね」と、岩崎医師。「杖なしで歩けるようになっても、人込みでは杖を持ってて下さいね。足が悪いことを分かってもらえますよ」と、看護師さんも言い添えた。そして、早速、全荷重で片杖のリハビリが始まった。始め、足の裏がふわふわとして落着かなかったが、なんと!すぐに歩けてしまった。トレーナーの西林さんがいなければ、ここまで早く回復できなかっただろう。
そして、翌1月15日に帰宅したとき、私は杖なしでも難なく歩けることを発見してしまった。歩けるのは嬉しいけど、歩いていいんだろうか?岩崎先生のお言葉、「装具をつけても最初は三分の一荷重。それから二分の一荷重、少しずつですよ、、、」がよぎる。三分の一荷重になれたのはたった7日前。昨日、全荷重で練習し始めたばかり。同じ入院患者でも、全荷重の許可が出て何週間も経っているのに、恐くて杖が離せない人を見てきた。私は無謀なのだろうか。手術前の筋肉を落さないように気をつけていたため、そんなに脚力はやせていなかった。
もう、自由に歩ける!これには、我ながらびっくりだった。だが、まだ、前にしか歩けない。人を横によけることも、退く事もできない。看護師さんの言う通り、他人に足が悪いと気付いてもらい、相手に避けてもらわねばならないのだ。学校の通勤は、特にラッシュで危険なので、杖をしばらく飾りで持ち歩くことにした。

ところで、足の悪い人は、よく、幅広のスリッパを履くのだが、年配者や筋力の落ちた人には、躓く原因だと思う。私は普段は、イボのついた健康スリッパを良くはいており、足裏に刺激を与え触感が良いが、松葉杖には向かない。これに対し、何気なく家で履いた小さなスリッパは、足幅が狭く、足の指が自然とグーにぎゅっとなった。こういった婦人物のいわゆる「突っ掛け」と呼ばれるかかとが高いやつや、フリークライミング用の一回り小さいシューズ、ダンサーの履くバレエシューズのようなやつは、術後に試しに履いてみると、少ない大腿四頭筋で、軽く動き回れることが判明した。思うに、前重心になって踏ん張れるハイヒールなどは脚が長く見える見た目の良さばかりでなく、おそらく、高いところのものをとったり、裾の長いスカートで脚裁きよく歩き回ったりするのに動きやすく、高い椅子に座るための、西洋人の知恵であろう。着物正座文化と、洋服椅子文化の共通点か。
これまで婦人物のシューズやスリッパはおしゃれだが足首に悪そうだなと勝手に思っていたが、力のあまり無い女性のためにある履き物でもあるのだと、手術して体力を失ってみて考え直した。そして、「突っ掛け」「ハイヒール」などというものを毎日履いている女性の足は、細くまっすぐに矯正されるんだろうな、と。


以降、リハビリの様子は次号に続く。 

しもたま柔道&闘病日記ーその30-

しもたま柔道&闘病日記ーその30-
世間では、杖や車椅子を使うのは比較的簡単だと思っていて、杖や車椅子を嫌がるお年寄りを、ただの我儘と捕らえがちであるが、やってみると30代の菰池でも、意外に大変である。車椅子は、小柄な人に難しく、杖や松葉杖は体重の重い大柄な人に不向きである。
私は手術直後に車椅子に乗ってみたとき、まるで水泳のバタフライだなあと思った。椅子は広くて低く、大きな車輪がわきから離れた上部にあって、力が入りにくい位置にあった。車椅子は本来、使う人の障害や、体形に合わせてオーダーメイドされる。ところが、病院や施設の車椅子は、100kgの人まで使えるようにということで、座高の高い大きな男性のためのサイズなのだ。こぐにはとても力が要る大きな椅子に、小柄なおばあさんであっても乗せられる。馴れない人は、車椅子の足置きに足を乗せることから覚えないといけない。歳を取って、記憶力や体力が低下してから練習するのは結構大変だ。
また松葉杖の場合は、別の問題がある。もし身体が大きな人ならば、自分の重い体重を二本の腕で支えるのが大変だ。大きな柔道選手の中には、杖がつけずに術後2週間も車椅子を使うという。体が細くて腕力がない人も大変だ。これまた二本の腕で支えきれない。体重を松葉杖の先の小さな2点に乗せて、バランスを取るというのは案外難しい。年寄り臭い小道具の代表、1本杖は、腕力のないお年寄りが寄りかかるのは、とてもこわく技術が要ると思う。杖を使うとよけいに動きが不安定になる。杖さばきに神経が集中し、足運びにまで注意がいかない。こうして、腰が曲がっても杖はつきたくないというお年寄りが多いのだと思う。足が元気なうちに、全ての人が松葉杖や一本杖の練習をしておけば、いざというときにすぐ使える。山の会に入っている方々は、登山の杖やピッケルでなれていらっしゃるから、いくつになっても杖さばきが巧みで活動的になれること請け合いである。
さて、小柄な割に腕の筋肉がある私、菰池の場合である。松葉杖を使うのはとても有利であった。こんなわけで私は、手術の翌日からさっさと松葉杖を使い始めた(車椅子は大きな荷物を運ぶときと体が疲れたときだけに決めた)。松葉杖を使うと、特別にトレーニングしなくても腕に筋肉がつくし、元気な右足が弱らなくていいというメリットがある。以前、右膝の内視鏡検査をしたことのある私は、筋肉が落ちるとどんなに大変か、よくわかっていた。たった1週間の入院だったが、退院してすぐに家の中の小さな段差につまづき、不自由な思いをした。段差のない病院にいると、いつのまにか筋肉が落ちて、あがっている上がっているつもりの足が上がらなくなるのだ。1週間で落ちた筋肉を取り戻すのに、23週間近くかかった。スポーツ復帰に6ヶ月もかかった。そんな失敗をしないよう、今回は退院までに筋トレをし、段差を克服しておこうと心に決めていた。ベッドの上で、手術した左足にじっとしながら力を入れるトレーニングをかかさなかった。歩くイメージトレーニングも時々行った。それらが、術後一ヶ月で杖なしで歩けることにつながったと信じている。
2日目に麻酔医からもらった座薬を早速使ったがあまり効かなかった。さらに飲み薬の痛み止めを飲むと、しばらくして効いてきて、その夜はとりあえず楽に眠る事ができた。手術3日め、全身のむくみもとれてきた。麻酔医から痛み止めをもらっていたが、昼間の足のうずきは続いていた。なんかおかしいなと思って、いろいろ調べていてようやく原因を発見した。なんと、サポーターの支柱のせいだったのだ。手術から2日経つと、ぐるぐる巻きのぶ厚い包帯もうすくなった。そこへ、サポーターの金属の骨が、ガーゼむき出しのひざ裏にごりごりとあたっていたのだ(後で知ったが、ひざの裏のほうにつくったばかりの靭帯がある)。理由がわかってから、看護師さんらがかわるがわる来て、包帯をぶ厚く巻いてくれたり、いろいろしてくれたお陰で、痛みはほとんど感じなくなった。万歳!

筋肉を落とすのは簡単だが、つけるのは難しい。プロのプレーヤーは、スポーツ専門の医師や理学療法士、トレーナーがついて、最新のテクニックと機器を使い、短期間で復帰していく。理論と努力があれば、一般人の私であっても、同じくらい早く回復できるはずだと、下肢の術後のリハビリについて記された専門書を買い込み、来年の収穫作業、そして、柔道やサッカーに復帰するために、最善をつくそうとしていた。だが、本やインターネットに出てくるリハビリの例に出てくるのは、多くが10代~20代の若者であり、小さな子どもやしもたまのような中高年の例、女性の例など、マイナーな患者の場合の例は少ないのが実情であった。そして、これらマイナーな患者と言うのは、回復が遅く、目的意識が無く、リハビリが熱心ではないという医師やトレーナーの思い込みも手伝い、マイナーな患者に手術を勧めない医師が多いのが、手術例の少なさ、リハビリ例の少なさに通じていた。
整形外科で入院しているのは、角谷整形のような中堅の病院では、若者はスポーツや事故で、半月板損傷や骨折のための1~2週間短期入院が多く、少女より少年が多い。20代~40代では、仕事中の事故による怪我が多いため、ヘルパーで腰痛で入院していた若いお母さん以外は、ほとんどが男性患者である。そして、高齢者では、男性より女性が多く、股関節よりも膝を壊した女性が多かった。軟骨が磨り減る高齢者に女性が多いのは、なぜなのか。食生活によるのか、出産育児のせいなのか、立ったり座ったりしゃがんだり、和式トイレや正座の多い和風の生活によるのか、それとも女性ホルモンの減少による、骨粗しょう症によるのか。もし、洋風の生活によるのであれば、今の女子高生が高齢者になるころには、膝の人工関節の手術例が減るかもしれない。また、女性ホルモンや食生活によるのであれば、高校生の頃から家庭科や保健体育で生活指導することにより、改善する余地があるのかもしれない。
年代別で回復を比較する。30代になると、10~20代に比べ、筋肉がつくのに時間がかかる。骨折でも、骨の発育期の青少年は、大人の約半分の期間で回復することから、おそらく、筋肉痛の回復力や、骨と筋肉をつなぐ腱の太り方などが、大人より青少年の方が早いと推察される。また、中高年では、歯や胃腸が丈夫で、カルシウムや軟骨の材料となる食材をきちんと取れる人ほど、同年代でも回復が早いということももちろん大切である。だが、回復にはやはり術後、筋肉が減らないうちにいかに早く身体を動かし、骨や筋肉に適切な負荷をかけられるかという事であろう。
それにしても、女性の方が長生きしているためとはいえ、どうして整形外科の入院に、高齢者の女性が多かったのだろうか。たまたま入院した病院で、たまたま大部屋で目立ったのか。年配の男性に個室が多く、大部屋に年配の女性が多いのか。こういった統計資料は、どこかにあれば教えていただきたい。背中の曲がった人も、股関節や膝関節の悪い人も、欝や痴呆の人も、どうして年配男性ではなく年配女性に多いのだろう。自殺者に男性が多いのと関連があるのか。心神が不自由になり、働けなくなった男性は、働かないで生活することに本人や家族が耐えられず、自殺させられているのか?それがわかれば、生活改善にかなり役に立つと思う。ここに資料がないため、なぜ、年配女性に整形外科入院者が多いのか、原因を考えてみる。修論は、マウスが超音波を聞いたときの行動量と遺伝子の関係であり、雌雄や日齢出比較してた。こんなときに、学生時代の研究、ホ乳類の繁殖行動遺伝の実験の検証が参考になる。
男性と女性で比べると、女性の筋力の早期回復はかなり難しいと思われる。少ない筋力は、関節の軟骨や靭帯に大きな負担をかける。信州や和歌山にて、サッカーや柔道をしている独身女性の悩みの多くは、10代の頃の練習量を、いかに維持するかである。体育やクラブの練習量の減少、社会人になって、デスクワークや家事の増加等。女性のアスリートの場合、男性に比べて日常生活で消費するエネルギー量が少ない上、体の女性ホルモンが、筋肉の増加を妨げてしまう。国体出場レベルの女性に話を聞くと、彼女らの多くは結婚後、そして出産後、いかに早くレギュラー復帰するかで悩みを抱えていた。通常の妊婦体操では、現役復帰が間に合わないと、様々な情報交換を行っているのをよく聞いた。多くの女性が、昔は出産後に以前と同じ仕事やスポーツのレギュラーに復帰できなかった。出産後の女性達は、10代の若者や同年代の男性の何倍も努力して筋トレしないと、以前のような動ける体形に戻れないから、おそらく復帰が難しかったのだと思う(こういった復帰困難な理由について、今までまったく想像ができなかったが、今回、全身麻酔の入院と3週間のベッド生活により、こういう苦労なのかと身に沁みてわかるようになった)。
信州にいた1990年代当時、スポーツに復帰している出産後の女性というのは、子どもが小学生になり、ママさんサッカーやママさんバレーをしている人であった。つまり、子どもの手が離れてから復帰と言いながら、スポーツ完全復帰までに出産後、10年近くかかっていることになる。そして、彼女らの多くが、60代になっても、その後、トレーニングにより筋力をほとんど落とさずに走ったりしているところをみると、やはり、男性ホルモンの蓄積が筋肉の増強につながり、50代、60代になって、女性ホルモンが減少しているために、彼女らの筋力は、むしろ女性ホルモン値の高く、出産を経る20代よりも維持しやすいのではと思われる(性ホルモンは、男女共に男性ホルモン、女性ホルモンが分泌されており、その比率や分泌の時期に男女差がある)。
結婚後もスポーツを続けている人は、新興住宅街や都市部を中心に、今でこそ全国的に増えてきているが、漁業農林業の盛んな有田海草郡ではまだ少数派である。家事や農作業、パート労働をサボって、金のかかるリハビリに通うのを嫌がる家が多いのだろうか。そして、既婚女性の仕事やスポーツは(農林業では男性のスポーツも野球を含めて)、暇と金のあるときにだけやる「娯楽」扱いである。出会った医師の多くが、“女性”はリハビリをサボるから、手術は勧められないと考えている。女性のリハビリが続かない理由は“環境”にあると考えられる。仕事と家族とスポーツとリハビリ、4つ全てを全うしようと思ったら、地方都市の女性にはかなりの根性、根気がもとめられる。まず大きな負傷したときに、仕事を辞めるか、スポーツをあきらめるか選択を求められる。身体を壊した多くの女性は、まず金のかかるスポーツをやめ、無理して仕事を続けるのではないか。よって、仕事や子育てを終え、高齢になってからようやく手術を受けられるようになるのではないか。こうして、入院患者に高齢者の女性が多い理由を、菰池なりに、想像している。

しもたま柔道&闘病日記-その29-

しもたま柔道&闘病日記-その29-
手術した日の夜のことだ。喉の渇きは、限界だったが、水入れに手が届かない。3回くらいは、目が覚めたと思う。我慢できずに、そばにあったものを手にとり、簡易ベットで熟睡中の義兄をつついて起こした。突然起こされて、驚いていたようだが、ようやく水入れを手にとって、飲ませてくれた。水ひとつ自分で飲めないなんて! 手術前には1人で平気といっていたのに、もう、弱音を吐いていると思うと、情けなかった。義兄に入れてもらったコーヒーを飲みながら、朝食のパンを食べた。これからは、コーヒーが欲しければ自分で入れなくてはならない。いれてもらう最後のコーヒーだ。やがて義兄は帰っていた。「また、3日後に来るから」と言い残して。簡易ベットではあまり寝られなかっただろうに、これから一日、激しい果樹の収穫作業が待っている。さぞ、眠いくてつらいだろう。
術後一日目。朝から、見知らぬ男性が尋ねて来た。花屋さんだった。花瓶がないからどうしようと思っていたら、きれいな花かごでテレビの上にちょこんと乗せられる様になっていた。送り主は、山の会の古くからの友人、浅井さんと玉置さんだった。花は、何日も私や病室の人の目を楽しませてくれた。一日目はまだ体力があり、麻酔の効果も手伝って比較的元気だった。思ったほどうずかない。内視鏡を使って手術したため、傷口が小さい。ガーゼ交換のときに中を見たら、1cmほどの3つの「十字」が点在していて、一番大きな傷は、5cmほど。よくあるマンガの「傷」のような、線路のマークのような++++の形をしていた。左脚は足首から太ももまで、サポーターが巻かれている。30度くらい曲げた3本の芯が入った、とてもシンプルなものだ。完全に固定すると筋肉が落ち、関節が固まってしまい、その後のリハビリが遅れるため、この十数年でサポーターを使うように変わってきたらしい。足を浮かせながら松葉杖をつき、コーヒーを入れたりゴミを出したりしていたお陰で、筋肉が落ちず、リハビリは早かった。(静のリハビリ。関節を動かさず、筋肉を意識して力を入れて数秒固定するだけでも、筋力の極端な低下を防ぐことが出来る)。
もちろん、ベッドの上では動かずにおとなしく上を向いていた。チューブなどのせいで左右に寝返りが打てないため、いつも上向きに寝ていたのだ。だんだんと体重のかかる踵を中心に、体が痛くなっていった。床ずれである。同じ姿勢でいると体が痛い。水を飲むために上げっぱなしだったベッドを倒してもらった。
手術二日後の朝が来た。昨日とうってかわって、身体がだるい。動くと足に激痛が走った。ついに、麻酔が切れたのだ。起きれずにうだうだと朝寝坊していると、看護師さんが来て、髪を洗ってくれた。うれしい!寝汗で髪はべたついていた。でも今日は、前かがみで髪を洗うのは、足がうずいてつらかった。持ってきたパジャマも失敗だった。きつすぎて、サポーターの脱着や傷の手当てができない。結局、四六時ジャージを履くことになってしまった。「短パンを持ってきたら」と、看護師さんが教えてくれた。義兄に、すぐに短パンを持ってきてくれるよう電話すると、来れないという。急に在庫の温州みかん(早生)を全部出荷するよう電話があり、家族と親戚で箱詰めに追われているのだ。「一週間後の23日に行くから」と聞き、着替えが間に合うのか、とても心細くなった。
このころ、平成9年より始まった不景気により、関東で高級果実の贈答用が動かなくなり、「安価な家庭消費用を、正月に食べるため、年末までに買いたい」という需要が増えていた。これまでのように、関東在住の息子らが、東北や北海道の両親や知り合いに、和歌山のおいしいみかんを歳暮に送るというパターンが、高度成長期に東北から出稼ぎに来た世代に続いてきたが、退職や経済的理由により、「歳暮」そのものを贈る人が減り、さらに、東北や北海道でも安価に愛媛や和歌山のやわらかくおいしいみかんが、スーパーやインターネット等で簡単に手に入るようになって、東京のデパートでの購入量が減っていた。かつて東京では、おいしさよりも、大きく見栄えの良いみかんが人気であった。というのも、仏壇の前で、大きなリンゴの横に並べると、小ぶりのおいしいみかんは、貧弱に見えるからである。さらに消費者の知識が高まり、自分で食べるのは、小さく安い方がおいしいということも理解されてきた。こうして、12月中旬まで贈答用の大きなみかんを出し、小さいやつは後でまとめて年末年始に出荷していた近年のパターンが、この年から崩れていた。また、スーパーが農家や共同選果場と直接契約するなど、市場を通さない流通が増え、東京の青果市場の会社の統廃合も進んでいた。
午後、例の麻酔科の先生がやって来た。私は、今朝から麻酔が切れてつらいことを訴えた。麻酔科は別名、ペインクリニックという。痛みを和らげる治療をするところなので、きっとこの痛みを和らげてくれるに違いないと、期待は大きかった。ところが、麻酔科の先生の言い分はこうである。「あなた、それだけ動けるのは優秀な患者さんなんですよ。普通は、そこまで動けません。痛かったら、そんなに動けるはずがありません(でも、本人が痛いといっているじゃないか!)。順調に治っている“優秀な”患者に痛み止めは必要ありません」。おもわず絶句だった。私には痛いから、何もしないでじいっとしているという選択肢は無かった。一日に十数回のトイレも、自分で松葉杖で行かねばならなかった。熱があり、水をよく飲むため、頻繁にトイレに行きたくなるが、こればっかりは、看護師さんに代りに行ってきてくれと頼めない。私は、痛み止め無しでこの後の一週間を乗り切る自信がなかったため、執拗に食い下がることにした。「先生、お願いですから背中のカニューレを抜く前に、もう一度麻酔薬をいれて下さい」「一度麻酔が覚めた足に、もう一度麻酔をかけるのは危険なのでできません。」「では、カニューレはあきらめますから、せめて薬をください。痛くて生活できません」麻酔医は、なかなかうんと言わない。「痛い痛いって、手術をしたらあなた、痛いのは当たり前なんですよ!」。そんな、無麻酔の江戸時代ではあるまいし。最後は、涙目で“泣き落とし”である。「どうしても家族が急用で来れなくて、動かなくては行けないんです。お願いします。お願いします……」潤んだ目を見た麻酔医は、ようやく自尊心が満たされたらしく、満足げに「じゃあ、しかたがないわね、特別に座薬と飲み薬をあげましょう」ともったいつけて処方してくれた。そして、麻酔医は何を思ったか、私の担当看護師を呼びつけて、あてつけに叱り飛ばしたのである。数分後、血相を変えた担当看護師がやってきて言った。「これからは、何かあったら私達に頼んで下さい。無理に動かなくていいんです。いいですか。こんな事されたら困るんです。もう、絶対止めて下さいね」看護師は泣きそうであった。一生懸命看護して下さった看護師に、恩返しどころかひどい仕打ちをしてしまって、申し訳なかった。これからはますます、看護師に迷惑をかけないようにしようと心に決めた。あとで、近所の人が、自分も角谷整形外科で手術するはずが、麻酔医ともめて和医大に移ったと言うことを聞いた。いい医者に、いい看護師、食事もおいしくリハビリ設備もばっちりのいい病院なのに、どうして最近入院患者が少ないのか不思議だったが。口コミは恐ろしいでんなあ。
これは、切れたひざの靭帯を新しく作って、世間のふつうの日常生活ばかりでなく、みかん採りや山登り、はては柔道までしてしまおうというもくろみを胸に、ひたすらリハビリに励む闘病の記録である、、、

しもたま柔道&闘病日記-その28-

しもたま柔道&闘病日記-その28-
看護師がストレッチャー(寝台)を運んでいく。午前9時半、麻酔開始。手術室に運ばれ、マグロのように転がり足を広げている患者。10時半、手術開始。患者の上半身は麻酔医達にしか見えない。助手の医者が、足を持ち上げ、手術中に動かないよう固定する。彼はその後、左足の足首をつかみ続ける。すでに再建手術をするつもりで準備を済ませているスタッフは、ブラックジャックのような岩崎医師の魔術を見落とすまいと神経を集中する。岩崎医師は膝の上下左右に3ヶ所、一文字の1cmくらいのメスを入れ、内視鏡で中を覗く。靭帯と半月板の状態は?暗いトンネルを抜けると、明るい関節の中にたどり着く。ピンクの組織の中に、白い三日月型のかたまりが2つみえるが、1つは少しささくれているようだ。奥にやはりピンクの縦長のすじが二本、交差している。器具を引っかけてみる。MRIの検査どおり、靭帯は切れているのか。それとも、ゆるんでいるだけなのか。ピンク色のすじは、延びたゴムのようにたわんで、やはり靭帯は切れている。続いて、白い固まりのほうに向う。半月板だ。表面を押してみたり、ささくれをつついてみたり、弾力性やひびの割れ具合を確かめる。けずるか、それとも切り取るか。岩崎医師は手際良く調べていく。半月板は、削って縫うことにしよう。その間約15分だ。
ひび割れた半月板を再度傷つけてから、軽やかな指で器用に細い針で縫い閉じていく。まだ、手付かずのきれいな膝関節。まだ浮遊物も少なく、画面が見やすい。これは、20分ほどかかる。いよいよ、再建手術に取りかかる。筋肉の加工と骨に穴を開ける作業を同時に行う。まず、ひざ下に5cm程の切れ目が入れられる。そこからメスを使って、腱にそって筋肉ごとに剥離していく。狙いは半腱様筋(はんけんようきん)だ。いくつかの筋の束から、半腱様筋を確認する。「これは細すぎる。薄筋も両方使おう」。他の筋を傷つけないよう注意深く2本の筋肉の一部を取り出す。そのまま使うには長い。筋肉は、すぐさま折りたたまれて、短くて頑丈な2本の「靭帯」へと造り替えられていく。その間、5cmの傷のところからメスを使って、すねの骨と皮とを剥離していく。また、太ももの皮を肉ごと2ヶ所つまんで、膝の上の穴からも、大腿骨と筋肉とを剥離していく。すねの骨や大腿骨が露出すると、脛の骨に直径6mm程度のトンネルを2本、さらに大腿骨にも57mm程度のトンネルを2本開けていく。骨の粉が組織に残らないよう、慎重に取り除く。新たに加工された「靭帯」が届くと、内視鏡の穴を利用しつつ、トンネルの中にピンセットなどの器具で巧みに誘導し、大腿骨の表面の出口で、それぞれチタンのボルトで固定する。2本の筋は、まるで本物の前十字靭帯のように、2本の上部がYの字を描くように分かれてひざの中を走る。
そして一番重要な作業がやってきた。新しい靭帯の牽引だ。この筋の引っ張り具合が、手術の成功を決めるといっても過言ではない。引っ張りすぎると、ひざは曲がらない。あまりゆるいと、靭帯をつけていないのと同じになる。微妙なさじ加減は、芸術といってもよい。センスを要する手術なのだ。岩崎医師は、患者の膝の角度を0度に伸ばし、新しい靭帯のテンションを決めて固定する。脛の骨のトンネルの入り口に、チタンテープが張られ、靭帯は両端とも完全に固定される。靭帯の付き具合を内視鏡で確認し、4つの入り口を順々に縫い閉じて終了。時刻は12時半。約3時間の手術はこうして無事に終わる。

私は、ストレッチャーの揺れを感じながら、まるで朝が来たように浅い眠りから目覚めようとしていた。薄っすらと目を開けると、長い天井のあいだに建物の継ぎ目が見えた。なんだか、外に出たように涼しかった。やがてエレベーターに入っていったようだった。エレベーターが降りていく。チンとエレベーターがなると、そこは見覚えのある1階のレントゲン室だった。手術は終わったんだ。なんてあっけないんだろう。撮影が終わると、ストレッチャーは再びエレベーターへと運ばれ、5階の懐かしい病室へとついた。また、うとうとと眠気が襲ってきた。
次に目覚めたときは、医師の術後説明だった。夢うつつの中、手術はうまくいったこと、半月板は取らずに縫ったことをおぼろげに聞いた。また、眠りに落ちて目覚めると今度は、看護師がやってきた。「足は動かせますか?」と聞くので、試してみる。膝は動かないが、足の指がきゅっきゅっと簡単に動いた。成功が目にみえて嬉しい。ただ、高枕に固定されていた首と肩は、なぜか事故のむち打ちのように傷み、全身が何かに縛られているようにあまり動かせない。その時は知らなかったが、点滴の針に心電図、尿のカニューレに下半身麻酔のチューブ、膝のドレーンを溜める袋まで、体のあちこちにいくつもの管があって、動ける状態ではなかった。 背中の麻酔のチューブは、麻酔薬の入った注射器型の筒につながっていた。2~3日くらいかけて少しずつしみ出して、足にだけ効いてくれるそうだ。まだ、麻酔が効いているらしく、少し起きるとまた熟睡してしまう。夕方水をのみ、お腹が動いているのを看護師が確認する。食事の許可が出た。6時に夕食がやってきた。サバの煮付だ。今日初めての食事。うれしくて、1合のご飯共々きれいに平らげた。
 義妹らは一緒にお昼にタイ料理屋で食べて来たという。この、タイ料理屋はタイの地震と津波のあと、閉店してしまい、ついに退院後に食べにいけなかった。いいなあ。早く良くなって、病院を抜け出して食べに行きたいなあ。それも生ビール片手がいいなあ。手術直後というのに、もう、食べ物と酒のことを考えてしまっている、食い意地の張った私だった。そして有限会社の義兄が泊ってくれ、夜中まで熟睡したのだった。手術の成功と裏腹に、これからが本当の不自由な闘病生活の始まりだったことは、知る由もなかった。

しもたま柔道&闘病日記-その27ー

しもたま柔道&闘病日記-その27ー

私の手術日は、20041215日にきまった。343ヶ月のことである。場所は和歌山市の角谷整形外科、担当は名医岩崎先生だ。角谷に診察に行く前から、靭帯再建手術(じんたいさいけんしゅじゅつ)を受けたばかりの友人に、手術とリハビリについての詳しい話を聞いていた。有名なバレエの男性舞踊家やフィギアスケーターがこの手術を行って、プロにきちんと復帰していることで有名だ。“再建”手術というのは、切れた腱(けん)を縫い合わす修復手術ではない。人工の靭帯や体のほかの靭帯を移植してきて、再び一から作り直す手術だ。どちらかといえば、シリコンをいれて豊胸手術するような、美容形成に近い。長年の勘がものをいう。美しい胸になるかどうかは、医者のセンスと技量によるように、術後の足の使い勝手は、執刀医次第という訳である。
友人らによると、手術は34時間の全身麻酔(長~い!)。手術の後23日はひどくうずく(座薬もらおう!)。最低2週間は入院(しめしめ、学校の冬休みが使えるわい!)。そして、スポーツの復帰には約1年もかかるという事であった。果樹、有限会社の正社員、菰池にとって、気がかりは1年後のみかん仕事。この12月に手術すると、次の12月も下手すればみかん作業ができないかもしれない。しかし、解決策がないわけではない。あらかじめ手術前に筋肉をめいっぱい増やしておくと、術後の筋力の回復が早いらしい。これは張り切ってリハビリを頑張るべし。
手術日が決まってから、角谷にリハビリにせっせと通うことにした。私の場合、左の太ももの裏から、筋肉を取ってきて、左膝に移植することになっている。その筋肉がやせてて使い物にならなかったら、切ってみてやっぱり中止というあほらしいことになるらしい。筋肉を増やすため、様々なトレーニングマシーンを使うことになった。そこはただで転ばないしもたまである。ついでに、柔道に必要な筋肉のトレーニングを受ける許可をもらい、足ばかりではなく、せっせと腕や肩や腹筋を鍛えることにした。1年後の収穫作業のためにも、上半身の筋トレが必要なのだ(みかんの収穫作業は、10kgの籠を長時間首からかけて、山の斜面に立つため、腹筋背筋ばかりでなくバランスを取るための腕力も必要である)。私にとって、手術とリハビリは、柔道の試合とそのトレーニングに重なる。絶対にやり遂げてやるぞ!というイメージトレーニングが大切なのである。その点、やる気は満々で絶好調であった。
いよいよ手術の日が迫ってきた。口では悠長なことを行っていた私も、さすがにプレッシャーで、弱気になっていった。生きて帰れるかしらん。もしものときのために、心の準備をしておこう。真剣にそう思った。1週間前に麻酔科の診察と検査があった。もともと枕が苦手で、高い枕をしていると気管や血管が締まり、寝てて息苦しくなる私は、麻酔がかかっているときの枕の高さが気になって、麻酔医に質問した。「ところで、麻酔中はどんな枕ですか?」。なんてあほうな質問!と、あきれているのがありありとわかった。「普通よりは高めの枕だと思います」「高い枕だと、息ができなくなるんで、低いものに替えてもらえませんか」「それはできません」。私は、ひざの手術は成功しても、息ができなくて死んじゃったよ、ざんね~ん!!はごめんだった。元もこもないではないか。さらに、手術中の説明に話が移った。「麻酔方法は、マスクでガスを吸う方法と、気管にチューブを入れる方法とがありますが、どうしましょう?」。どっちがいいか、と尋ねられたと思った。あわてて考えた。チューブのほうが息が楽かな?「では、チューブのほうでお願いします」。
突然、空に黒雲がわき、雷とともに嵐がやってきたかのようだった。ほんとうに私には青天のへきれきだった。麻酔医はいきなり眉をつり上げたかと思うと、すさまじい勢いで私に捲くし立て始めた。「あなたは、チューブをいれる苦しさが分からないからそんな事を言うんです!チューブを入れなくても喉の痛みを訴える患者さんが多いのに、チューブを入れたら、しばらく声も出にくく大変なんですよ!後々文句を言うに決まっています!あなたはねぇ!……」般若の面をかぶったような形相の麻酔医は、延々と数分にわたって私にチューブ挿入の大変さを並べ、是が非でもマスクに考えを改めさせようと説得にかかっていた。
私は、突然の豹変に頭がついていけず、ぽかんと口を開けて説明を聞くばかりであった。私は何か、言ってはならないことを言ったのだろうか。それとも私の言い方が失礼だったのだろうか。どうやら知らずに“地雷”を踏んだらしいということだけは、おぼろげにわかった。「では、手術までによく考えておきなさいね!」と結んで、ようやく麻酔医が私を解放してくれた。私はこの“きれる”医者に麻酔されるのかと思うと、手術前でそれでなくても不安な気分が、更に滅入りそうだった。それでも、担当医ポアロ氏がお気に入りなので、なんとか耐える事ができた。

ついに、入院の日が来た。12月はみかんの収穫、運搬、箱詰め作業が加わり、いつにも増して仕事がきつかった。筋トレのために週23回、中学校の仕事帰りに病院通いをしていたこともあり、和歌山に働きに行く日は、朝5時半に起床、帰宅は10時半をまわっていた。睡眠時間はいつも5時間を切り、入院直前の私はぼろ雑巾のように疲れきっていた。同じ有限会社の社員達も、この4週間、1日も休むことなく、体を壊すほど超長時間の肉体労働に耐えていた。入院前日に、仕事帰りに車で病院に寄り、荷物のおおかたを運んでおいた。そして入院当日14日。重い荷物を担ぎながらJRで有田から和歌山駅まで行き、そこから徒歩10分かけて病院に行き、ひとり入院した。「付き添いの方ですか?」と聞かれた。看護師にはおおきな荷物を背負う私が、明日手術を受ける怪我人には見えなかった。入院中、トレーニングのために、寝巻きにスリッパではなく、サッカーのジャージに白の運動靴で過ごした。これも、早期回復によかったが、悪い足に脱いだり履かせるのに、膝をひねることにつながり、また、加重が負担だったかもしれない。また、生物の勉強をするため、「ウォーレスの生物学上下」を持参し、ノート6冊にまとめ直した。そして、息抜きに、「バイオハザード」と「ファイナルファンタジー」とプレイステーションを持って行き、消灯までの時間つぶしにしていた。そのソフトには、ジムを経営する女性(あねさん)と義弟が2人いて、そのあねさんというのが実はニューハーフであったという落ちがついていた。子ども用のソフトながら、セックスための歓楽街まであり、当時のバブル経済の華やかさが繁栄されていたのを覚えている。ゲーム類はちなみに、弟、剛史の差し入れである。
手術前日のメニューは、こんな感じである。まず、10時ごろ部屋に案内され、荷物を整理するまもなく、抗生物質のテストをしたり、毛をそったりつめを切ったり検温したりした。30分の軽い筋トレの後、すぐに昼食をよばれた。さんま定食だった。結構量があり、味もしっかりしていておいしい。ここの病院にしてよかったと思う瞬間だ。1時ごろに担当医師、岩崎先生とのミィーティング。手術の大まかな流れを確認する。夕方、例の麻酔医とのミーティングがあった。「アレルギー喘息の人は、気管挿入しない方がいいのです」と、最初から説得の気配なので、今更話し合うのも面倒くさくなり、麻酔方法の件は、医師にすべて任せることにした。初めから、「すべてお任せします」といえば、医師の機嫌も良かったのだろうが、それは後の祭り。あとは、窒息したとき気付いてくれることを祈るのみである。きっと、いろいろな測定機械があるから、そんな初歩的なミスは起こらないことだろう。医師とスタッフを信じるしかない。また、麻酔医には風邪を引かないよう、安静にしていましたかとも聞かれた。安静のはずがないのだ。無理な仕事で体がぼろぼろのところへ、電車やバスや学校で、ウィルスだらけの人込みにもまれているのだから、いつ風邪をひいてもおかしくない。だが、気が張っているのか、今の所たいした不調はなかった。“恐怖の問診”は、こうしてクリアできた。この麻酔医は、手術前ばかりではなく、術後もいろいろ笑わせてくれる(今だから笑える)発言をするのだが、それはまた、次の日記にて。
5時ごろにシャワーを浴びさせてもらい、つづいて麻酔科の看護師の説明も受けた。看護師らは親切で明るい人達ばかりなので安心だ。同じ部屋の人達も気さくでいい感じだった。医師も看護師も周りの患者も、これ以上恵まれた病院はないだろう。
夕食の卵焼きや煮物を食べてから、絶食に入った。明け方からは水も飲めない。いよいよ明日だ。興奮はしていたが、疲れているせいか、なれないベッドでもぐっすり眠れた。
深い眠りから目覚めたら、手術の朝だった。朝早くから、看護師さんが入れかわり立ちかわり来ては、検温や点滴などをしていくので忙しかった。お腹が空いたとか、手術は恐いとか、余計なことを考える暇を与えてくれないのだ。なんだか、病棟全体がぴりぴりとしているのが感じられた。そんなに大きな手術だったのかしらん。そう言えば、骨折をつなぐよりも、膝の半月板を削るよりも、医者の腕が問われる繊細な手術であった。知らないというのは恐ろしいものだ。手術着に着換えていると、義妹が子どもと一緒に来たので、あわてて手術の承諾書にサインしてもらう。いよいよ分きざみの作業になってきた。点滴の針がなかなか入らず、先にストレッチャー(寝台)に移って筋肉注射をする。義妹が、赤子を抱いて見守っている。子どもは大勢の見知らぬ人にも動揺せず、泣かずに私を見つめている。この子は、何を思って私のことを見ているんだろう。ふと貴重品のかばんのことを思い出し、義妹に手渡した瞬間、私の記憶はとぎれ、意識は深い暗い淵の中をさまよっていった。
手術の模様は、次号にて。

しもたま柔道&闘病日記ーその26-

しもたま柔道&闘病日記ーその26-
前回、山と柔道をほどほどにと書いたが、柔道を完全にあきらめたわけではなかった。週に3回、相変わらず道場に行き、乱取りこそしないものの、打ち込み(技をかける練習で、野球の素振りのようなもの)をやったり、例の60代の大谷氏と形(かた)の練習をしたり、それなりに楽しんでいた。「そのうち、世界マスターズで、形の試合に一緒に出ましょう!」という、大きな夢を抱いて練習に励んでいた。
ドーンさんといえば、最後の昇段試合を4戦4勝で4ポイント獲得し、晴れて黒帯となっていた。柔道を始めてたったの1年。なんのズルも特別配慮もなく、正真正銘の10勝で手に入れた黒帯だ。ドーンさんの友達(同じく英語の先生)と4人で、温泉でくつろぎ、スペインやイタリアの手料理で、みんなで黒帯をお祝いした。
そんなあるとき、形(かた)の練習で、どうしても私の膝では出来ない動作が出てきた。その動きを除けば、後は平気なのだが、練習の度にまた、膝への不安が募るようになってきた。折りしも、某中学校との給与交渉がいちばん激しかったときで、仕事に対する未練もあまりなくなった。「これを機に、病院に行って、足でも切るかあ」とすんなり思えたのだ。さっそく、和医大に出かけた。「先生、やはり、手術を受けたいんですが。ところで、先生は今年、何人くらい、靭帯再建手術をなさったんですか?」と私は尋ねた。学校で、管理職との詰めが甘く、交渉がこじれたことにすっかり懲りていた私は、最初が肝心とばかりにきいた。しかも、今度もMDで会話を録音していたのである。我ながら、自分もすっかり擦れてしまったんだなあと妙にわびしいが、命がかかっているから真剣である。先生は、良い方だった。嫌な顔もせずこうおっしゃった。「以前はしょっちゅうおこなっていましたが、実は、この病院では人工関節ばかりで、まだ一度も行っていません。前にいた角谷整形外科に紹介状を書きましょう」。本当にいい先生である。世の中のお医者様が皆、こんな方であれば良いのにと思う。疑ってMDをとろうとしたことを、すまないと思った。
こうして、紹介状を手にした私は、3月の時点で希望していた通りの、角谷整形外科で診てもらえることになった。私の担当の岩崎先生は、外見は名探偵ポアロ(英国ドラマのほうで、アニメ版ではない)のような方で、とても明るく、私の話をよく聞き、そして、わかりやすくじっくり説明して下さった。「切ってもらうなら、この先生しかない。この先生でだめなら、誰が切ってもだめに違いない」と直感的に思った。MRIの結果は、予想通り前十字靭帯断裂であった。が、意外や意外、膝の大事なクッションである半月板もさらに内側側副靭帯(MCL)も傷めているという。この半年で悪化したのであろう。これは、一刻の猶予もならなかった。「先生、是非手術をお願いします」と私は即答した。「12月上旬までもう予定が一杯です。1215日以降なら、、、」「じゃあ、1215日にして下さい」「では家族とよく相談しておいて下さいね」。
12月15日なら、みかんの出荷ピークも終わっている。果樹園にも、前期後期の中学校にも、あまり迷惑はかからないはずだ、と思った。いざ、切ってみると、それどころではなかったが。

しもたま柔道&闘病日記-その25ー

しもたま柔道&闘病日記-その25ー
これは、切れた膝の靭帯を新しく作って、世間の普通の日常生活ばかりでなく、農作業や山登り、果ては柔道までしてしまおうというもくろみを胸に、ひたすらリハビリに励む闘病の記録である(プロジェクトXふう、のんふぃくしょ~ん!)

膝の怪我というのは、昨年(2003年の正月)、柔道のOBと組み合って、物の1分もしないうちに起こった、例の例の、腹の立つ事故である(柔道日記―その17参照)。果樹園の収穫作業が終わり(菰池は有田の有限会社で、いわゆる冬みかんを作っている)、久しぶりの「立ち技」だった上に身体が冷え切っていたのが災いしたのか、私のいとしい靭帯は、あっけなくカーーンと切れてしまった。超むかつく!ことに、相手がしかけたのは「反則技」である。年末から心待ちにしていた、カナダ人ドーンさんとの対戦は、即おあずけ。長い冬眠から心地よく目覚める予定が、初日でふたたび冬眠に逆戻り。捻挫はとてもひどく、歩くのも座るのも痛んだ。すぐに救急車を呼ぶべきであったが、自身がM高の教員であったため、黙って、家に帰ってから診察してもらうことにした。その場にいた、とある人物が「わいが見てやる」、膝を手に取り、しゃかしゃかっと動かして診て、「う~ん、これやったら(捻挫やから)、骨も筋も大丈夫やあ~」と豪語するので、ますますその場で帰りづらくなった。救援も頼めず、膝はみるみる腫れて、その日は自力で左足でクラッチを踏み踏み、痛みに耐えながら家に帰ったのであった。
その日のうちに、救急指定病院に電話してみた。「いますぐひざを診てもらえますか?」「今から、家で待機している担当のものを呼び出します。」「レントゲンも撮ってもらえますよね?」「いえ、技師は休みなので、診察だけになります。」「じゃあ、正月あけまで我慢します」と、受話器を置いたのがよくなかった。私のひざはどんどんと腫れていき、曲げるのも厄介になっていた。
3日後に、いきつけの大きな整形外科に行くと、担当はたまたま、よそから赴任してきたばかりの見慣れぬ医者だった。「柔道で足が反対に曲がりました。骨折しているように痛いです」「では、レントゲンを撮りましょう」うれしい、やっと念願のレントゲンだ。もしかしたら、骨のどこかが欠けているかも、なんて思っていると、画像を見た医者は言った。「骨は大丈夫です。ねんざでしょうから、2週間安静にすれば治るでしょう」。膝の水を抜いてみたが、ただの茶色い液だった。ここで血液が混じっていたら、発見はもっと早かっただろうに、不幸にも受傷後3日もたっていて、出血の有無はわからないようだった。
2週間経っても膝はぷっくりとはれ、曲げることができなかった。しかも、ひざの水を抜くたびに、腫れでゆるんだひざは、ぐらぐらと不安定に揺れた。「先生、まだひざがぐらぐらします。」「それは、安静にして筋肉が落ちているせいです。筋トレをしなさい」。えっ?と思った。いつまでも良くならないひざで筋トレをするのは、しろうと目にも変だと思った。指示通りに屈伸をするたび痛みがひどくなるし、普段、足を横に踏み出すと、ひざが滑ってぬける感じがしていたのだ。失望した私は、病院から遠のいていった。
ひざのよくない私は、柔道も山登りもおあずけの毎日だった。4週間後の沢部恒例の交流山行では、比良スキー場での日帰り雪山登山。楽しく登る仲間を尻目に、山頂でかまくらを掘って気を紛らわしていた。2月に入って、小さな子どもと軽く柔道をしてみた。意外とできた。調子に乗って茶帯びとやってみたら、大きくひざが崩れ、うんうんうなるほど痛くなった。3月になっても足のぐらつきはおさまらなかった。道場で滝川先生に報告した。「治らないので、他の病院で診てもらう事にします。和歌山市の角谷整形にしようと思うのですが」「大きな病院のほうがええ。和医大にしなさい」無断で正月に柔道をしにいき、怪我をしてしまった手前、滝川先生には逆らえない。こんな経緯で、和医大でMRIをとってもらったところ、ようやく損傷部位が判明した(柔道日記その19参照)。ひざには4本の靭帯があるが、関節の中心を走る「前十字靭帯(ぜんじゅうじじんたい)ACL」が、おそらく切れているらしい。私には、画像がぼやけててよく見えないから、ホンマかいなと耳を疑うばかりである。手術するかこのまま保存するか選べるが、しばらくはサポーターで固定して様子を見ることとなった。医者は言った。「リハビリが大変だから、手術はやめておいたら?このまま無理しないで生活すれば、、、」私は心の中で叫んだ。「まだまだ、人生楽しみたい。仕事も趣味もあきらめるのは早すぎる、、、」叫びは声にならなかった。みかんの仕事は3Kで絶対に無理をする。登山も柔道もまだまだこれからだというのに。切なかった。
道場に戻り、師匠の滝川先生に報告した。「靭帯は、切れたと決まったわけやない。かりに切れてもまたくっつくこともある。様子を見ようやないか」。夏まで様子を見よう。そうだ、夏には先生のマスターズ柔道があるじゃないか。旅行が終わってから考えよう。それまで、手術について調べよう。私は、登山や柔道はほどほどにして、「足に負担のない」はずである、ウィーンの歌の「合唱」に明け暮れた。ウィーンでは、先生の70歳代の優勝を目にした(柔道日記2122)。しかし喜びもつかの間、試合後の観光、ヒトラーの山荘「タカの巣」ベルヒテスガーデンの最中に、足を滑らせてしまった。あれ?サポーターが効かない?!ユダヤ人の祟りではないかと思いたくなる、いや~な捻挫だった。捻挫はひどく、普段から足が常時ぐらつくよう(気持ち悪く滑る感覚)になってしまった。冷や汗が出る日常生活が続いた。日々悪化していく私の大事な足。このままでいいのか。1月の怪我、4月のMRIの後、そして7月の旅行の後と、約3ヶ月ごとに悪化しているのが目にみえるようだ。
不安を抱えたまま、合唱の本番も終わり、ほっとしたのもつかの間、某中学校の話が舞い込んできた。膝が悪く、収穫時の斜面での運搬もままならないから、外で稼ぐのも悪くはない。そう思って、快く引き受けた。悪い足で和歌山市まで通勤するのは、どうかと思ったが、満員電車に揺られるのもまんざら悪くはなかった。毎日色づいてきたみかん(その収穫の戦力外という現実)と向き合っているよりは、外の空気がすえるのが嬉しかった。このまま、手術しないでいけるかも。足が悪いのはまるで気のせいのようだった。10月まではそう思っていた。しかし、現実は許してくれなかった。